トミさん、ありがとう
鶴見俊輔
元日に、新年のごあいさつと思って、電話をかけました。お姉さんのやすさんの答えに、
はりつめた空気を感じました。次の日、トミさんがなくなられたしらせがありました。
四十三年前、トミさんがひとりで歩きはじめたところから、ひとつのことがおこりまし
た。戦争はいやだという誰でもの心にある声がひとつのともしびとなり、それは他の誰か
の心にまたひとつのともしびをつくる、そういう動きです。
分類の都合で、それは市民運動と呼ばれます。しかし、トミさんはこれを市民運動と思
ってはじめたのではありません。
トミさんは、今まで一度もデモに出たことのない絵の先生としてはじめた。トミさんが
あってこの運動はあった。
一度、トミさんがその本領を発揮したことがありました。声なき声の中から、死を決し
て権力と対決しようという声があがって、声なき声の大部分がその声についていったとき
です。トミさんは、自分はひとりになっても、普通にできることを守るといって、さっさ
と家にかえってしまいました。そしてその時をこえて、もとの運動の形をつづけました。
戦争はいやだという、普通の人が誰でも感じていること、それを誰にでもできる形であ
らわしつづける。それがトミさんの呼びかけです。 四十三年間。トミさん、ありがとう。
二〇〇三年一月六日
それが小林トミである
岩垂 弘
小林さん。まさか新年早々、あなたに弔辞を捧げることになるなんて、夢にも思っても
みませんでした。私の戸惑い、言いようのない深い悲しみ、癒しがたい喪失感と寂しさを
お察しください。
あなたは、いつもその大柄で頑丈そうな身体に力をみなぎらせていました。いかにも健
康そうで、病気とは無縁、という印象でした。「いつも朗らかで元気」というのが、あな
たにぴったりの言葉でした。
そのあなたがいつになく白っぽいお顔をされているので、気になりました。昨年九月十
二日、東京・神田の日本教育会館でお目にかかった時です。「ベトナムに平和を!市民連
合(べ平連)」の事務局長だった吉川勇一氏らの呼びかけで、新たな反戦市民運動を始め
るための相談会があり、それにあなたも出てこられました。「顔が白っぽいですよ」と言
うと、あなたは「そう」と笑って、あまり気にもされていないようでした。
その直後、あなたは急きょ入院されました。しかし、私は、あなたが持ち前の頑強さを
発揮して、早期に健康を回復されるだろうと、堅く信じて疑いませんでした。お見舞いに
うかがった時もお元気で、暮れには退院されました。ですから、悲報に接した時、とても
信じられませんでした。七十二歳。それはないよ、と神様に抗議したい気持ちでした。
あなたの生涯を貫いていたもの。それは、一言でいえば「戦争はいやだ」という強い意
思でした。それは、少女時代の体験に根ざすものと思われます。日本が太平洋戦争を始め
た時、あなたは十一歳で、旧制都立高女に進んでももはや授業はなく、勤労動員の日々で
した。浦安に住んでいましたから、死者十万人といわれる一九四五年三月十日の東京大空
襲の惨害を目撃しています。
ですから、六〇年に日米安保条約が改定された時、あなたは「これは戦争につながりか
ねない」と危機感を抱いた。安保反対闘争が始まると、あなたは友人とたった二人で「誰
デモ入れる声なき声の会」と書いた横幕を掲げて国会周辺を歩いた。労組員でなかったか
ら、労組のデモ隊に加わるわけにもゆかず、自ら一般市民が気軽に入れるデモの隊列を編
み出したのでした。安保改定を推進した岸首相が「私は『声なき声』にも耳を傾けなけれ
ばならないと思う。いまあるのは『声ある声』だけだ」と述べ、「声なき声」、すなわち
国民世論は政府を支持しているのだ、と強弁したことに対する小林さんの意義申し立てで
した。
これが、反戦市民グループ「声なき声の会」の誕生でした。以来、四十二年余り。あな
たはずっとその代表を務め、会報「声なき声のたより」を刊行し続けたり、毎年六月十五
日には、安保闘争の中で犠牲となった東大生樺美智子さんの死を悼んで、仲間とともに国
会通用門に花を供えてきました。
あなたの活動は三つの点で傑出していた、と思います。まず、その活動が他から命令さ
れたり指示されたものでなく、あくまでも自発性に基づいたものであった点。第二は口舌
の徒でなく、必ず行動を伴ったものであった点、第三は長く継続する活動であった点です。
これらの点はそれまでの大衆運動に欠けていたもので、あなたは日本の大衆運動に新しい
地平を切り開いたのです。その根底には、人間に対する無限の信頼がありました。評論家
の鶴見俊輔氏は「小林さんは日常生活の一部として反戦運動を続けてきた。つまり、普通
の人でも反戦運動ができることを実証したと言えます」と話しておられます。あなたの足
跡は、日本の大衆運動史に燦然として光輝いています。
そしてまた、私は、戦後最大の大衆運動といわれる六〇年安保闘争は二人の人物を生ん
だと考えています。一人は樺美智子さん。もう一人は、その樺さんを日本人として忘れ去
ってはいけないとして終生顕彰し続けた小林トミさん、あなたです。時代が、運動が、傑
出した人物をつくり出す。それが歴史なのだ。あなたとの長いおつきあいの中で、私はそ
う思うようになりました。
米国によるイラク攻撃が始まろうとしています。世界はまた戦争に突入しようとしてい
ます。日本もこれに参戦しようとしています。風雨強かるべし。今こそ、小林さんがかつ
て始められたような反戦平和の市民運動が切に求められています。なのに、あなたはもう
いない。まことに残念でなりません。が、あなたと私たちの絆がこれで永遠に切れてしま
ったわけではありません。
文芸評論家の勝本清一郎氏は、同氏が編集した岩波書店版『透谷全集』の第一巻付録に
次のように書いています。
あらしが幾度も過ぎた。今後もまた過ぎるであろう。
あらしの合間に天空の深みに見覚えのある一點星がいつも光っている。
それが透谷である。
透谷とは、明治時代の代表的な思想家であり詩人であった北村透谷です。「それが透谷
である」。それを、私は「それが小林トミである」と読み替えたい。あなたは、これから
も天空の深みに輝く一點星のような存在であり続けるでしょう。そして、あの人なつっこ
い童女のような笑みを満面に浮かべ、ひそやかに私たちに語りかけてくださるでしょう。
私たちが道に迷って右往左往するようであれば、どうか私たちが向かうべき方向を指し示
してください。
二〇〇三年一月七日
元朝日新聞記者、平和・協同ジャーナリスト基金代表運営委員
トミさんのこと
高畠通敏
「その人はいい人?」と訊ねるのがトミさんの口癖だった。声なき声のような運動に、無
償の協力を惜しまない善意の人か、それとも自分の利害や都合でしか動かない人か。それ
がトミさんの人間哲学だった。
思想の科学研究会に二〇代の会員がたくさんいた頃、面識こそあったが、私はトミさん
とほとんど話をした記憶がない。六〇年安保でトミさんがはじめて声なき声のプラカード
を掲げた日にも、私への誘いはなかった。私は、研究会の事務局にいて、声明の原稿や評
議員会の記録づくりに追われていた。そして竹内好さんや鶴見俊輔さんが、岸政権に抗議
して大学を辞めてゆくのに強い衝撃を受けていた。私もできたら抗議辞職したい。しかし、
東大助手は、前年に任期満了でくびになっており、辞めるところもない。だが、鶴見さん
は、今後は、トミさんたちの声なき声の会を拠点にして、市民運動を続けると談話を出し
ている。もし、声なき声の会が瓦解などしたら、鶴見さんは赤恥をかくことになる。
私にできることは、声なき声の会を支えること、私はそう結論した。私は、トミさんに
近づき、「声なき声のたより」を発行して運動を組織化し、その事務局を引き受けると宣
言した。それが、その後二〇年の間、声なき声の会の事務局長として、トミさんとつきあ
うことになった始まりだった。
その間、私は、研究会の事務局長にさせられたり、アメリカやメキシコに長期留学した
り、自分の都合で何回も、実質的に声なき声の事務局長の仕事をさぼった。そのたびに、
私は、トミさんの内で「いい人」から「悪い人」へと評価がえさせられたのだと思う。だ
が、私が声なき声の仕事に復帰するたびに、トミさんはあっけらかんとした声で、「高畠
さんはやっぱりいい人だった」と宣言してくれた。それには、へきえきする思いもあった。
しかし、人間や人生をこのように単純化して割り切ることから、トミさんが声なき声を生
涯背負うというエネルギーも生まれたのだと思う。
途方にくれている
本多立太郎
私の六〇年安保の記憶は日本橋の会社の机で見た小さな新聞記事から始まる。「一米上
院議員曰く、今回の日米安保改定が成らなかったら、アメリカの防衛線はカリフォルニア
に後退するだろう」 おいおい、アメリカの防衛線が米西海岸にあってどうして不都合な
のか。こりゃ戦時中の「満蒙は日本の生命線」と同じじゃないか。こうしておられん。頭
より手足が先に動くのは生来のクセだから早速日比谷へ行った。日比谷は煮えくり返して
いた。赤旗の後には一寸まずい(当時ある金融機関の課長、四六歳)、うろうろしてると
片隅に小さな旗と二〇人ほどの貧相な集団が来たから一寸頭を下げてもぐりこんだ。それ
がやみつきで毎夜、わっせわっせとなった。当時は麻雀族だから「麻雀よりもっといい遊
びを覚えたんじゃないか」と社内に怪しからん噂が立ったほど毎夜通った。右翼と戦って
上衣にカギ裂き作ったり、ズボンを泥だらけにして帰ったから、細君は亭主何やってんだ
と思ったろうが、双方とも何とも言わない。そういう躾は出来ている。そんな動機だから
もぐりこむ先は「声なき声」とは限らない。誰とでも構わず腕を組み胸を張った。歩道の
野次馬からどんどん飛び込んでくる。仕舞いに国会議事堂の鉄柵の向こうに並んでるポリ
公たちに、「オーイこっちへ来いよ。いい気持ちだぞ、来たいんだろう」と手を振ったり
した。あの頃は、本心連中もそう思ってたんじゃないかな。
それから二十年、一九八〇年六月十五日、始めて小林トミさん、鶴見俊輔さん外のみな
さんに会った。何だか中学のクラス会か、町内の花見会みたいに感じたのを覚えている。
あの頃は市ヶ谷の日本棋院近くのYWCAだったナ。安保成立の瞬間を市ヶ谷台上で聞
いて口惜し涙を呑みこんだのを思い出したりした。上方に棲みついたので毎年とはいかな
かったが、何とか口実を見付けて上京した。
だんだん若い人が増えきて、あの頃のわっせわっせ組は数えるほどになった。でも、終
始全く変わらない人が居た。八〇年からまた二十余年も経ったのに、少しも年をとったと
いう気配がない。池袋の豊島区勤労福祉会館の前、硝子扉の向こうにニコニコと手を振っ
ている彼女の笑顔に、せかせか歩みよる私はいつもホッとした。ああ来ちゃったと思った。
トミさんの笑顔に吸い寄せられるように上方から延々新幹線で(八〇年には、東海道線で
六回のりかえて十一時間半かけて出席して拍手されたりした)やってくるのだ。そのとき、
私は正直この世の女神を見たと思った。何を調子のいいことを、と思うだろうが、これは
決して誇張でも世辞でもない。
この時代、ますます金と力の世の中になってきたし、またなってゆくだろうが、中に全
くそれと無縁な無私な人が居て、年に一度、七夕さんのように逢瀬の刻が来る。老耄の身
となり果てても、俺には帰るところがあるんだと固く深く思いこんで来た。
その人がもう居ない。どうすればいいんだ。
トミさんとの出会い
望月寿美子
わたしの市民運動の原点は、一九五五年の砂川基地反対です。そしてそれから五年、当
時商店の主婦だったわたしも、五月中旬ころから婦人団体や教職員組合の行動に加わって、
請願デモをしていました。 そんななかで、「声なき声」や小林トミさんと出会ったのは、
六月一九日でした。この日、「声なき声の会」の始めての集会が青山の草月会館で開かれ
たのです。
ここ数年はわたしが足が不自由になったものですから、トミさんが皆さんとわたしの家
に来てくれました。わたしの家から帰るトミさんの後姿が今でも眼に焼きついています。
(談)文責・柳下
トミさんの絵
横山貞子
有楽町駅に近い画廊で小林トミさんの個展がひらかれたのは、一九六三年の夏だっ
たろうか。その時の作品のひとつが、今の住まいに越してきてからずっと、玄関にか
けてある。横一メートル、縦が七〇センチほどの、かなり大きなものだ。
渦巻きが三つ並ぶ。抽象画なのだが、渦には動きが感じられる。内側がベージュ色、
中間が白、外側が木蓮の花に似た赤紫。画面の下から上へ、渦を突き上げるような縦
の太い線がある。地面から生えてきたゼンマイのようにも見える。背景はところどこ
ろに空色の縦線のまじる、あたたかい白が使ってある。
この個展では、展示された二十点ほどの作品のすべてが、この渦のようなモチーフ
だった。画面を縦に使ったもの、いくつもの渦が並んだもの。ひとつだけのもの。会
場に取材にきた新聞記者が、「どうしてこのかたちだけなんですかね?」と言ってい
たのを思いだす。
今、ふりかえってみると、あれは一九六〇年六月、「声なき声」のデモが発生する
のに立ち会ったトミさんの心象を、かたちで表現したものだったと思える。トミさん
の心の深いところから立ちあがってくるかたちだったのではないか。それは、声なき
声の会をずっとやってきた持続力に通じるものだった。
長いあいだ親しんできた「声なき声のたより」の表紙絵は、油絵の作品とちがって、
単純な太い線から成る。『たより』四十三号(一九六七年一一月発行)は、二十八ペ
ージの分厚いもので、杉山竜丸さんが「ふたつの悲しみ」といういい文章を書いてい
るので、印象の強かった号だ。この号の表紙は、瓦屋根と庭に面した廊下のある家の
絵だった。雨の中のデモを題材にした、大小の傘の中に「声なき声」「の」「たより」
と誌名を入れた表紙(三十四号、一九六五年六月発行)もなつかしい。
持続する魂魄
鈴木 正
60年安保闘争のころ私は愛知県の中学の教師をしていました。名古屋大学の小さな研究
会のあと、テレビ塔広場で行われる夕方の集会に出る学生や院生らが準備していたので、
いっしょにでかけるために手伝ったら私のプラカードの作り方が堂に入っているとM教授
がほめてくれたことを思い出す。そのころ貴女(あなた)が始められた「声なき声」は新鮮
でした。私のような田舎教師には動員されて日当の出るデモでなく、自由な意思を表わす
チャンスがない。それを創造した貴女たちの発想と行動に遠くから尊敬の念を抱いて、人
知れず声援を送っていました。
貴女に直接お目にかかったのは「思想の科学」の集りでした。中学の絵の先生だと聞いて
驚きと親しみを余計に感じました。いつだったか、6・15へ誘っていただいたのに上京
できなくて残念でした。去年、共通の友人である堀孝彦さんが参加して、貴女や鶴見さん
に逢えてよかったと便りをくれました。
数年前『声なき声のたより』に何か書くよう、お声をかけてくださいました。私にとっ
て「声なき声」のイメージは無名な庶民と地続きの市民ですので、少年時代に母と店番を
していた思い出と重ねて、この集団への期待と、その小さな光源が放つ希望について書き
ました(『声なき声のたより』95号、二〇〇〇年一月一五日)。
二〇〇〇年の「思想の科学」でお会いしたときの記憶がもっとも鮮明です。あの年は内
々で会のことを議論しようということで大野力・高畠通敏両氏が話したあとの討論のなか
で『転向再論』に私が書いた「あとがき」の正確ではないが、予測は事実上そうなるだろ
うし、それでいいという意のカッコ内の言葉をめぐって激しい感情のこもった批判があり、
私は沈黙していました。貴女はコンパの席で、気のきいた言葉で切断するかのようにたし
なめられたことが印象にのこっています。鶴見さんがいつだったか貴女のことを「思想の
科学」のなかでユニークな存在感のある人だといっていました。
アメリカのイラクへの先制攻撃=侵略が勝手放題におこなわれている今、少年時代に耳
にタコができるほど聞いた「鬼畜米英」がよみがえってきました。そんな時代だからこそ
貴女の遺志も復活して生き生きと伝わってきます。私は歴史のなかの人間の抵抗は賽(さい)
の河原の子供の石積みのように、くずれてもくずれても積むものだと、アソシエーション
問題をめぐる集会で話したことがあります。ギュンター・グラス(ドイツのノーベル賞作
家)がイラク戦争に寄せて書いた「強者の不正」の結びの言葉を引いて「彼岸」に投げます。
「われわれが山の頂にむかって転がしていった岩塊は、また山の麓(ふもと)に転がり
落ちてしまったのだ。それならわれわれはこの岩塊をまた頂上にむかって押し転がしてい
こうではないか。岩がやっと頂上に達するやいなや、また麓に転がり落ちることになりそ
うだという予感はする。それでもなお、何度でも、決して終わることのない抗議と反対を
繰り返していく」(「朝日新聞」二〇〇三年三月二六日付け夕刊)
これと「声なき声」の精神とは同質ですよね。小林トミさん!
長い間ごくろうさまでした
渡辺一衛
昭和三十年代のはじめ、思想の科学のいくつかのサークルに私が出はじめたころ、小林
トミさんがいつもお姉さんのやす子さんと二人で出席しておられたのを懐かしく思い出し
します。その後トミさんは「声なき声の会」の中心メンバーとして四〇年間重責を担って
こられました。ほんとうにごくろうさまでした。
昨年の六月はじめ、福富節男さんの呼び掛けで渋谷でデモが行われたとき、「声なき声
の会」からも案内が来ました。それに誘われて私も出掛けていったのですが、そこで久し
ぶりに河辺岸三や九十九里から来た金井佳子さんなどにお会いしました。みなトミさんの
呼び掛けで来たということでした。当のトミさんは少しおくれて元気に現れました。小さ
なデモでしたが、昔べ平連が始まったころの月例デモを思い出しました。
それが今年になって、何万という人達の反戦デモになったのは予想外でもあり、とにか
く嬉しいことでした。もちろん単純に喜ぶわけにもゆかないのですが、もしトミさんがお
元気だったら、その中でいきいきと活動されただろうと思います。ほんとうに予想もしな
い亡くなりかたでした。
新しくデモに参加した人々の中から、日本でどんな運動が生まれるのか。当分明るさが
みられないブッシュの世界が、どうなってゆくのか。年齢的にいって、私もいつどうなか
分からない状態ではあるのですが、トミさんの分も見続けてゆきたいと思っています。
五分でも百メートルでも
堀 孝彦
トミさんの便りはすぐに分かる。郵便受けの底の方にあっても、元気のいい字が封筒か
らはみ出すように見えるからである。
六十年安保で出会い、国会周辺をデモしていたのだが、翌年から福島や名古屋へ赴任し
たため、六・一五の献花も、昨年まではほとんど共にしていない。
浅沼さん虐殺テロの当夜(一九六〇年十月十二日)、喫茶サニーに集まった一二、三名
が首相官邸までデモった。路上で即製のプラカードを書いている写真のなかに当時婚約中
だった僕たちの姿も写っている(「声なき声の二年間」を記録した『またデモであおう』、
『復刻版 声なき声のたより』第二巻に収録)。
その翌年四月に福島へ赴任してすぐ、五月の福島県中央メーデーに「市民の皆さん
五分でも百メートルでも歩きましょう」のゼッケンをつけた後ろ姿の妻の写真も同書第五
部の扉「一人ずつのたたかい」に出ている。
それらのことをよく覚えていてくれたトミさんが、妻の急死に対し、「この二十年以上、
おめにかかる機会にめぐまれなかったが、福島に仲間が元気で活動されているという心の
支えになっていたのに、本当に残念です。人の命のはかなさを感じます」という暖かい弔
文を『たより』七一号(一九八三・六・一五)に寄せてくれていた。それなのに、その二
〇年後にこうして僕の方からトミさんを送る文を書く回り合わせになろうとは。同じ言葉
で返す他ない。
二一世紀を迎えて再び「またデモであう」必要が格段と増してきた。あの緑の三角小旗
も二代目を作成するという。一日も早くイラク戦争を終わらせ公正な世の中をつくること
以外に、トミさんに報いる手だては、やはりないのだろうか。
(二〇〇三・四・二)
トミさんが仲立ちしてくれた
伊藤幹彦
昨年の春『雑記通信』なる個人紙に、名古屋大空襲の記を載せたところ小林トミさんか
ら「私も三月十日の東京大空襲を浦安で経験しました」という便りを受け、次号にそのこ
とと併せて「有事法制反対」の先導幕を中山千夏さんと掲げてデモしている小林トミさん
の写真を紹介した。
すると追っかけ小林トミさんから『声なき声のたより』に書いてみませんかとのお誘い
があり、書いたのが「思えばあの時はまだ、新幹線は走っていなかった」という書き出し
の一九六〇年六月十五日、国会前のこと。
その私の雑文に並んで掲載されていたのが、堀孝彦さんの告別講義。一読して、待てよ、
と思った。このお名前にどこかでお目にかかったことがある。そして思い出したのが、
『図書新聞』を始め各紙の書評欄で紹介されていた『英学と堀達之助』の著者ではないか
ということであり、調べてみると孝彦さんは、ペリー来航時の主席通詞であり、日本で最
初の英和辞典編者である堀達之助の曾孫だった。
この堀孝彦さんの著書を、政治学者の田口富久治さんが、書肆『みすず』の「今年印象
に残った書物」というアンケートに挙げておられるのを知り、私も堀孝彦さんのお仕事に
ついては多少存知あげているということを、半ぱ自慢気に田口富久治さんにお手紙した。
すると、田口富久治さんから「堀孝彦さんは、私の恩師堀豊彦先生のご子息で、年齢も殆
ど同じで……」友人です、との返信があった。
そういえぱ、堀孝彦さんのお便りには、「トミさんとは同年齢で、六〇年安保以来の友
人ですが、咋年の六・一五の会合が最期になろうとは……」とあったが、新しくつくられ
た「声なき声の旗」を今年の六・一五集会には持っていってトミさんに見せてあげたい。
今様・晶子
飯岡祐保
お正月の新聞を珍しくシゲシゲと見ていたら、死亡記事欄に「小林トミ」と載っていた。
世の中に同姓同名の人もいるものだと思ったら、何とご本人。こんなに、驚いたことはな
い。だって、去年の確か秋に宮下公園であって、一緒に渋谷の街をデモしたのに。
告別式の日は、寒かった。その後私は、具合を悪くして一月以上も本調子になれないで
いる。その間に、図書館から彼女の作品を借り出して、床の中で読書三昧の日を過ごした。
今はディズニー・ランドで有名で昔の面影をなくした街の神明さまでホッとする後書き
が、『わが町・浦安』にはあるが、その昔のままの神明さまに準えられるのが、小林トミ
さんであるという気がしてくる。
時流にあわせてカメレオンのように器用に変身することなど、彼女にはありえない。
六月十五日に毎年、国会に樺美智子さんへ皆と献花をし続けた彼女。
「声なき声のたより」を出し続けた彼女。
彼女のおとぎの国は『貝がらの町』で、今はもう、ない。姉様人形や、塗り絵、ぼった
ら焼き、紙芝居、活動写真。お風呂屋さん。
ディズニー・ランドの何倍も豊かだったそれらは、『貝がらの町』の頁に閉じ込められ
ている。
「彼女、与謝野晶子に似ていない? 」
「子どもが沢山いて…」
そんな話をした。ともかく、そのくらい、たっぷりとした印象があった。
彼女は作品の中で、沢山の子供を作った。そのどの子にも、実の母親の愛情を注いだ。
人間が好きで堪らないと、選り好みをしない広く、深い眼差しを感じる。
声なき声でありつづける
阿部拓二
小林トミさんが亡くなられたのをきっかけに、『声なき声のたより』の復刻版二冊を開
き、小林さんの文章を中心に読み返してみた。それらはどれも、他人に訴えるというより
静かに自分に言い聞かせるような文体で、読んでいてまるで小林さんの肉声を聞くような
感じがした。毎年恒例の六月十五日の集会を進行させるときの、あの優しい自然な口ぶり
が今にも聞こえてきそうだった。このような語り口が「声なき声の会」を四〇年以上にわ
たって持続させてきたのかと、なにか合点がいく思いがした。
『たより』を読むと、会を解散、あるいは会が消滅するかもしれない時期が幾度かあっ
た。すでに六〇年安保の数年後にその危機があったようだ。八〇年代はじめにもそのこと
がうかがわれる。集会を開いても誰も集まらない、そんな夢をみることがある、と小林さ
んが書いている。でも、小林さんは、死ぬまで続けてきた。
九〇年前後から追悼文が多くなる。六〇年安保時代からの参加者が次々と他界されてい
ったためだが、小林さんの追悼のことばには、死者を悔やむ気持ちはあっても不思議と未
来への悲愴感はない。
私は一九九七年六月に初めて参加した。六月十五日の当日朝、神戸から柏市のお宅に電
話して参加の可否を尋ねると、「是非出席して下さい」と明るい声で言っていただいたの
を今も思い出す。それから去年まで四回出席した。
毎回、小林さんが買ってこられた抱えきれないほどの大きな花束(それは国会南通用門
で殺された樺美智子さんに供えるためのものだが)が前の机に置いてあるのが印象的だっ
た。
「声なき声の会」が四〇年続いているお蔭で、六〇年安保時は小学生だった私も今にな
って参加でき、小林トミさんにもお目にかかることができたばかりか、拙文を『たより』
に掲載してもらったりもした。
日本では、今も日米安保はなくなっていないどころか、自衛隊は海外に派兵され、「君
が代」は国歌とされ、さらに政府は憲法九条などは全く無視しアメリカの侵略戦争に積極
的に賛成する有様である。有事法制は国会に提出され、教育基本法も変えられようとして
いる。
一人でも反対の声をあげよう。同時に私たちはいつまでも声なき声でありたい、そのよ
うな励ましを私に与えてくれたのは、小林トミさんである。私はこの出会いを宝として今
後とも、この原則を大切にしていくつもりである。
帰らぬ女性
松本市壽
小林トミさんのお通夜に行った。法要のあと棺の窓から見えたトミさん穏やかな死顔が
眼の底にあって忘れられない。翌日の告別式にはどうしても出られないので、わが家の机
に向かいトミさんとの来し方の日々を思い出している。
ああ、この時間には式も終わり、トミさんの安らかなあの顔も焼き場の炎と一緒に昇天
する頃だなと想像するとも、思わずぐっと悲しみがこみ上げてきた。机の前のボードはト
ミさんの宛名でよく「声なき声の会」の予定を知らせる案内はがきをピンアップしていた
ものだ。はがきを補うかのように、よく電話もきた。トミさんが亡くなって、そんな非常
事態を知らせるいつものトミさんの声が聴かれなくなった。そういう下世話なこともすべ
てトミさんの役割だったなあと気付く。
六〇年安保に反対して、名もない市民の声なき声を訴えるために「またデモで会おう」
の合言葉から始まった声なき声の会。名もなき市民とはいうものの、そこには高名な学者・
文化人も無名の市民顔で参加した。トミさんが、この会をどういう経過から引き受けるこ
とになり「声なき声」の顔になったかは詳しく知らない。私は思想の科学研究会からの縁
で途中から参加するようになった。むしろ、べ平連が盛んな頃二トントラックを出し機動
力となった。べ平連が終息してから、とびとびに顔を出した程度。
トミさんはべ平連主導の過激なデモにも、声なき声としての一線をいつも敷いていた。
そこがもどかしくも感じられたが、今思うと声なき声の立場として大切な自重的態度だっ
た。わたしを含め、時に気まぐれな参加者の多い市民運動のカナメ役として四十年以上も
地味な幹事役を黙々と背負い続けた女性に無言でこうべを垂れるしかない。
声なき声もべ平連も、知・情・意のうち〈理知と意地〉の勇み足で〈温情〉に欠ける。
理知と意地の世界はあるべき理想をわめいて常に空理空論を虚空に撒きちらす。温情派は
三分の理想を大切にして着実に実行する。声なき声は面白い形の複合体だった。
トミさんの喪失でひとつの時代は終わった、とべ平連の吉川勇一は言う。わたしもそう
思う。わたしは二十数年来、良寛の研究に賭けた。晩年七十二歳頃の良寛の辞世の漢詩に
「草庵雪夜作」がある。〈みわたすところ七十年あまりを、俗世間の是非=よしあしを嫌
というほど見てしまった〉と。トミさんの痛恨の思いも封印されたかも知れない。
声なき声の今後は〈是か非か〉の議論も大切だが、参加することでわけもなく楽しくな
るような雰囲気づくりをもっともっと取り入れる必要があると思う。トミさんは,やはり
そうした会のあり方を思い描いていたと察する。それにしても帰らぬ女性の大きな主柱を
失ったことを惜しむ。(一月七日記)
小林トミさんのこと
松本弘子
一月三日の朝刊を開いてびっくり仰天したのは、トミさんの訃報が載っていたことです。
ええ、まさかという思いでした。その前に、交流のあった松井やよりさんが亡くなられて
ショックを受けていましたのに、今度はトミさんとは、何と悲しいことかと胸はり裂けん
ばかりでした。トミさんがご病気とは全く存じませんでしたので信じられぬ思いでした。
その前に私の夫も永眠、残念ながらトミさんの告別式にはお伺い出来ませんでした。
思えば、一昨年九月、横浜の望月寿美子さんのお宅でトミさんとお目にかかったのが最
後でした。昨年は望月さん宅に集まるお知らせがなかったものですから、お手紙差し上げ
て、夫の看病にて今年は欠席ですと伝えたのですが、何の音沙汰もなく、その頃からお具
合が悪かったのでしょうか。
トミさんとのおつき合いはこの十数年でしたので、ほかの皆さんより縁薄かったのです
が、いつもゆったりおおらかで、おおような態度を学ばなくてはと、せっかちな自分を反
省したものです。
ただただご冥福をお祈りするばかりです。
共感と励まし
宮地忠彦
もう一〇年ほど前のことだが、池袋の勤労福祉会館の1階のロビーで、小林トミさんに
私の個人的な話を聞いていただく機会があった。その少し前に、私は声なき声の会の例会
に初めて参加し、その後も毎月の例会と6・15集会へのお誘いのハガキを、トミさんか
らいただくようになっていた。
私はその場で、「五つ以上の市民活動に関わるようになり、どれも中途半端になってき
たから、特にやりたいと思っていた活動に集中したい。だから、例会には参加できなくな
るが、六月一五日に集る方々のお話を聞きたいので、6・15集会には出たい。」といっ
た話をした。いわば個人的な事情や思いのようなものを、私はトミさんに聞いていただい
た訳だ。
その時、トミさんは、いつものように微笑みながら、「私も同時に複数の運動やサーク
ルに関わっていたことがあるから、あなたの話はわかる。その(私が集中的にやろうとし
ていた)活動は大切なことだから、がんばって。」というような話をしてくれた。
私は、熱心に参加を勧めてくれているトミさんの誘いを断わることに、負い目を感じて
いた。だから、その時、とにかくトミさんが私の話を承諾してくれたことに、ホッとして
いただけだった。しかし、後になって心に残ったのは、その時のトミさんの、話を聞く姿
勢だ。私などトミさんの運動経験に比べたら、当時も今も赤ちゃんのようなものだろう。
けれども、トミさんは私の目線に合わせて、私の話に共感してくれたのだった。
そして私は、知らぬ間に、そんなトミさんの共感に励まされてきたように思う。私はこ
こ数年、ある病気の家族会の活動をしている。反戦運動とはあまり縁のない活動だが、そ
の活動に関わる私をどこかで支えてくれたのは、一〇年前のトミさんとのお話と、その後
の毎年の6・15集会の関わりだった。
今年の正月、突然の「知らせ」をお聞きして、久しぶりにトミさんの本『貝がらの町』
をひらいた。以前、次のような箇所に、私は線をひいていた。
「私は絵を書いていますが、絵を書く場合、理論家があって、それにしがたって絵を書
くのではないのです。それこそ自分の内面的なものを大切にして自分で絵を描くわけです
から、私が『声なき声』に参加するのもやはりそれと同じだと思います。」
私がある家族会に参加しているのも、その活動の「普遍的な正しさ」
を信じているからではない。そこには「自分の内面的なもの」と響きあう何かがあるから
だ。その何かについて、一度ゆっくり、トミさんに話してみたかった。もうその願いはか
なわないけれど、これからもトミさんの共感に励まされながら、私は市民活動を少しずつ
続けていくのだろうと思う。トミさん、私は、もう少しがんばってみます。
トミさんの居ない集会
竹入マリ子
「マリちゃん 元気!」トミさんのあの少し高い声をもう聞くことはできません。自然
体で一市民として自分の信じることを語り続けました。理不尽なことに怒りました。でも
ご自分の主張を他人に押しつけることは決してない方でした。
だからこそたとえ細々であってもトミさんのもと「声なき声の会」は続いたのでしょう。
トミさんは自分の言葉で呼びかけ、また、他の人の言葉に耳をかたむけました。この姿勢
こそ会を維持し続けた原動力であったと私は思っています。
今年の六月十五日は、はじめてトミさんの居ない集まりとなります。もしかしたら「声
なき声の会」の最後の集まりになるかもしれません。けれどもトミさんが信じ、呼びかけ
語り続けた自分の良心に従い発する声は消えることがないでしょう。
今イラクでは、罪のない人々がアメリカの言う「正義のための戦争」の名のもとに殺さ
れています。戦争に正義などありえません。
トミさんなら「戦争反対」と一人でも語り、皆に呼びかけます。「皆さんも一緒に反対
しましょう。よかったらどうぞ。誰でも入れる声なき声の会です。」
残された私達は、このトミさんの思いを大切にしていきます。
『たより』の原稿
増田浩司
小林トミさんは会うと必ず『たより』に書いてねと私に言った。しかし、私は文章
を書くのが苦手なので一度も『たより』に投稿することがなかった。それなのに初め
ての投稿が追悼の原稿になろうとは考えもしなかった。
小林トミさんとは帰る方向が同じなのでよく一緒に帰った。青木さん、磯村さんと
ともに常磐線沿線組ということで、とくに6・15のときは四人で帰った。
電車に乗っている間の会話で私が一番印象に残っているのは、妹尾河童さんの『少
年H』を手本に自伝的小説『少女Z』を書いているという。『貝がらの町』で子どもの
ころの話を書いたが、新しく書き直して現在までのことを書いているという。なかな
かペンは思うように進まず苦労していることを話していた。
トミさんは手書きにこだわった反面、ワープロを買って密かに練習していた。使い
方がわからずによく愚痴をこぼしていたが、時代の流れからパソコンをやりたがってい
た。ワープロもままならないのに、パソコンにはどうしても踏み出せないらしく諦めて
いたので、岩垂弘さんがパソコンを始めだしたときはショックだったらしい。岩垂さん
は手書きからワープロになっていたが、ワープロがパソコンの普及とともに生産されな
くなり故障したのでやむなくパソコンに替えたのだった。
トミさんは生前、『たより』を100号まで出したいことよく言ってました。今回
の99号、次回の100号は小林トミさん追悼号にすることを3月15日の打ち合わ
せで決めました。それに6・15集会をやることも。
今年もいつもの人懐こい顔で「6・15集会に来てね、待っているから」と声が聞
こえてきそう。
トミさん、デモで会いしましょう。
並ぶ者がない強さ
青木和子
一九九〇年、自民党が「国連平和協力法」を言い出したとき、「これは大変。ここで意思
表示しなくて、どうする」と、十数年ぶりにデモに参加しました。
渋谷・宮下公園に集まったのは、わたしの予想に反して、簡単に数えられるほどの参加
者。若者の姿はとても少なく、勤め帰りのサラリーマンという風情の中年以上の人たちば
かりでした。でもといえば、その昔何度か参加した「べ平連」のデモしか知らない私は、公
園のうす暗がりに三々五々集まってきている年配の参加者たちの数の少なさに、驚き、そ
して感動しました。
小林トミさんと初めて言葉を交わしたのはその時でした。
「べ平連」のデモでは、「声なき声」の青い小旗を持ったトミさんは、いつも大勢の人たち
の輪の中におられ、声をかけようなどとは考えもしませんでした。ところが、宮下公園で
のその時は、何十年も前のことを思い返しているうちに、お声をかけてみたくなってしま
ったのです。それがきっかけで、「声なき声の会」の例会にも参加させていただくようにな
りました。
その中で、三〇年もの間(一九九〇年当時)、初心を忘れず、筋を通してこられた方々
を知ることができました。そして、トミさんのゆるぎない姿勢。来るものは拒まず、去る
ものは追わず、自分の信念に従って淡々と行動しておられるその姿に、たくさんのことを
教えていただきました。
鶴見俊輔さんが言われるように、弱い個人が持続している運動が「声なき声の会」なので
しょう。しかし、それを四〇年以上も持続させたトミさんの意志の力は、並ぶものがない
ほどの強さだと思います。
微力とはいえ、トミさんの遺志を受け継ぐためにも、非力で弱い人間であることを恥じ
ることなく、ゆるぎない意志だけは持ち続けたい、と願っております。
小林トミさん、長い間おつかれさまでした。いろいろお世話になり、本当にありがとう
ございました。
どうぞ、ゆっくりおやすみ下さい。
2009年09月29日
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