2009年11月07日

2009年6.15集会の記録ーその2

柳下弘壽

 今の話でトミさんのお姉さんがいろいろ探してくれて、写真を見つかると、送ってくれてね・・。べ平連時代から写真が増えるんですよ。今話を聞きながら何故かと思ったら、一つはね、カメラの問題だと思うんです。60年当時は、今みたいに、今みなさん、あちこちで撮影しているけど、デジカメで撮っているでしょ、で考えると、差別用語だと言われるけど「バカチョンカメラ」が流行ったのはもっと後なんですよ。だから、あの当時カメラを持っている事じたいが少ないから、いわゆるカメラマンが撮った写真しかないんじゃないかと、ほとんど。今みたいに会員の人が、互いにパチパチ撮った写真が、それでないんじゃないかと、ふと思ったんで、なるべくさっき言ったように探して下さい。とにかく古い写真はほとんどない、60年当時から70年の。べ平連時代の写真はいっぱい出てくるんです。そういうことですいません。


岩垂弘

 写真でいえば、私はほとんど、カメラ・(聞き取れず)・・ですがね。やはり新聞社の撮った写真が多いですね。非常にやばいんですよ。著作権の問題でね。ですからそれは出すなと彼女には言っているんですがね。  


柳下弘壽

 そういうやつは、著作権があると、勝手に使える訳じゃないし、各新聞社なり、通信社なりで、こんどは自分で探して来なきゃいけない、どの写真を貸してくれとか言うにしてもね、でそれは一度はやらなければだめだと思うんですけどね。はい、すいません。


飯岡祐保

 飯岡と申します。104号のニュースの終わりから2枚目の所に、去年の発言が載っていますが、実は、去年から今日までの間に「日めくりカレンダー」という番組が取材に来たというので、私と柳下さんがそれに応じたんですね。でもキャンセルされたんです。で、何故だかよく分からないんですけど、言い訳みたいなのを取材に来た人が・・、要するに、下請け会社の若いお兄さんがセットしたり、インタビューをする織作峰子さんというカメラマンの方を連れてきたりしていたんですけれども、要するに、デモや何かにいく人は特別な跳ね上がりだという先入観があって、私と話していると、どうもそういうのではなさそうだというので、あれはその他大勢だから放送するに値しないという意見を言ったような感じだったんですけれども・・。後で私がはっと思いついたのが、その時の私の発言で「私たちは主権者になりたくて国会議事堂にいった。例えば主権者になったら天皇制というものはなくなる」というようなことをちらっと言ったんですね。たぶんそれが引っかかったのかなって、今にして思いますけれど、そういうことがありました。


柳下弘壽

 それに関連して、結局、資料と同じで、60年当時「声なき声の会」に参加された方というのは、もう今、ほとんどいないんですよ。トミさんもある時期から、そういう話があると「嫌だ」と言って、受けてなかったんです。それで、私の所に言ってきたりして、私は多少でも「声なき声の会」を知ってもらうことはいいと思って、ただ私は、個人的には60年安保というのは分かりますけれど、「声なき声の会」としては、私はしゃべれないんで、でもやっぱり・・、資料と同じで、非常に今、その点で少子高齢化じゃないけど、実際に、あの岡本さん、岡本さんじゃないや、岡村さんも多分存命だと思うんですが、このところ連絡しても一度も出てこられないし、さっきお話した望月さんもそうですが・・、だからもう無理な話になってきたという、そういう所はあるんですよね。


丸山新男

 丸山と申します。遅れてきまして申し訳ありません。ちょうど今頂いた「声なき声のたより104号」で言うと、最後に丸山で載っていますので、趣旨も去年発言したこととほぼ変わらないのですけど、来年は50年、1960年からの50年と言うことで、安保はいらない半世紀ということで、トミさんが歩いた歩いたように、デモって言うか、そういう大袈裟じゃなくて、本当に市民の一人ひとりが意思表示するという形で、15日前後の日曜日とか、そういう日に何かありましたら、国会南門、周り一周ぐらい回る、そういった、何歩きっていうんですか、散策歩きのようなことをやりたいんで、どうかよろしくお願いします。


馬場宣明

 最初の方に、自分の穴掘りをという話があったんですけれど・・、馬場といいます。安保についても僕は外側にいたような感じで、憲法にも何か外側にいるような感じがして、その始まりというのが小学校の頃、軍国主義・・華やかな頃で、全てのものに日の丸が出てきて、絵を描けば軍艦なり、飛行機に日の丸を必ず描かなければならない状態で、日の丸、日の丸の日々だったのですが、あるとき新聞に、アジアのどこかに日本の軍隊が出て行って、地元の子どもたちが日の丸をふって歓迎しているという写真を見たとき「なんだろう」という疑問にぶつかっちゃたんです。子どもながらに、子どもたちに強制しているというか、強制されているというふうに僕は感じてしまったわけなんです。それと小学校の時の、学校の朝礼というのが、校長先生が演壇で、教育勅語を恭しく発言するのを、僕は身体が弱かったものだから、じいっと緊張しているのが耐えられなかったということがあったりして、その日の丸が天皇そのものだったし、教育勅語が天皇そのもので、それを強制されることの苦痛さをずっとそこから引きずっているような気がするんです。だから憲法を死守しなければというような人には、申し訳ないけれど、第一条からずらずらっと天皇、天皇が来ることを僕は全く読む気になれないというのが実情なんです。


大木晴子

 大木晴子です。新宿・西口で土曜日に反戦の意思表示をして7年目に入っています。その前に連絡事項だけ。吉川勇一さんが今日ここにいらっしゃってないんですけど、6月に入りまして、軽い脳梗塞を起こしました。今日、今、退院して家に戻ったそうです。軽かったものですから、身体の方に麻痺とかはありませんが、ただ失語症といって人の名前とかがすぐに思い出せなくなって、二度ほどお見舞いに行ったときに、映像なんか見せたときなどにもすぐに名前が出なかったり、ちょっと落ち込んではいますけれども、とても元気になられて今日退院しました。みなさんでハガキとか励ましなんか書いて下さったり、それから「明日も晴れ 大木晴子のページ」という私のページでも、吉川さんの報告をしてますので、読んでいただくと詳しくわかると思います。

 それから、私は声なき声の会に関わってから丁度40年になります。それは1969年、私も中心になって歌ってました東京フォークゲリラというのが、新宿・西口の地下広場で歌っていました。そこから丁度40年になります、今年。その時に中川五郎さんが作詞・作曲した「前進」という樺美智子さんを追悼する歌がありまして、それを私が歌わせて頂いていました。その時から樺美智子さんのことは色々調べたり、本を読んだり、私の中で樺美智子さんが生き始めたのが、40年前です。そして今もずっと生き続けています。それはどうしてかというと、この6月15日は私にとって新しく出発する日になります。夕べも、先週土曜日の報告ページを書き終わったのが6月15日、日付がかわった時刻でした。一番最後に今みたいな言葉を書いて、私の中で樺美智子さんが生きている、そう、生きていると思いたい、そしてこの6月15日からまた新たな勇気をもらって歩みたい、という気持ちを書きました。この声なき声の会に来る前は、私はその曲を口ずさみながら、国会の前を2周くらい歩いたりとか、6月15日はそんな日を過ごしてきました。闘いの正念場に入ったと思う今年、オーバーな言い方をすれば、命をかけて闘わなければいけないなと覚悟を決めているような所もあります。身近な人たちがだんだん消えていく中で、私もそれに、もう60歳を過ぎて、足が片方入ったなと自分で思いながら、自分で出来ることをこれからもやっていきたいと思います。みなさん、土曜日、地下広場はとても良い広場になっています。何か言いたいことがあったり、メッセージを誰かに投げかけたいと思ったときに、ふらっと、5時から6時までは地上で、6時から7時までは地下広場で誰かが立っています。そして、スタンディングは人に見せるためだけではなくて、確実に自分自身と見つめる時間です。強くなれます。強くならなければ闘いは勝てません。


久保田千秋

 足立区から参りました久保田と申します。本日は二回目であります。昨年ここに出て参りました時も感じたんですが、故人を悼むということの中で、やはり自分の現在が問われていると感じています。そして現在の自分を問うことによって、私にとっては遠い人でありますけれども、故人と繋がることができるのであろうと考えています。今、九条改憲を阻止しようと思っておりますが、九条を改悪するその策動は、日米安保条約とこれは切り離せないものでありまして、昨年の9月25日、横須賀の基地にジョージワシントンが来て、日本は基地を提供する安保条約から、米軍と一体となって海外に出て行く安保条約に変質してきている、そういう時期を迎えていると思います。ソマリアの海賊を口実に、いままでは自衛隊を海外に出すところまでは、何とか彼らはこぎ着けた訳ですけれども、今、その海外に出した自衛隊に武器使用を容認、武器使用と言うことは殺人であります。自衛隊の殺人を容認しようとする法律が、今国会を通過しようとしている。そして来年の5月18日からは、国民投票法が始動されて、いつそういうものが変えられるかという、そういう瀬戸際に来ているんだなと思っています。

 長岩均さんという方と一緒に、日米安保無効訴訟の会というのを作っておりまして、日米安保は無効であると、相当な根拠を持ってなんですけれども、そういう訴訟裁判を今、闘っています。そして、詳しくはホームページがございますので「日米安保無効」と打ち込んで頂ければ、その闘いの内容をお知らせすることができると思います。憲法が空洞化されてきているということですけれども、この安保条約の瑕疵につけ込み、イチャモンをつけ、ケチをつけ、そして様々な形で、今度は安保を空洞化していく闘いを展開していったらいいなと思っています。来年は50年と言うことですが、安保を問いただす年として、様々な場面で、改憲を許さない議員の方たちを増やすと言うことも、一つの手ではありますけれども、とにかく様々な形で、安保を問いただす闘いというのをやっていたらいいのではないかな、そういうふうに考えております。是非、ホームページをご覧下さい。「日米安保無効訴訟の会」を検索して頂けると、内容がわかって頂けると思います。


道場親信

 道場と申します。今年2回目の参加になりますけれども、僕はもともとミニコミというものがとても好きで、前からよく集めていました。それで声なき声の縮刷版を買って、縮刷版の後の号を毎年一冊づつ模索舎で買ったりしていたんですけれども、去年初めてただで手に入れまして、しかも今年は自分の名前が載っているという、自分がそこに載っていると言うことで、自分の声なき声のたより収集歴に、非常に記念すべき年に、今年はなったように思います。それで、自分の名前が載っていて、読んでみてどうなるかというと、話し言葉の情けなさというかですね、これもこのまま文字になると大変なことになるんですけれども、ほとんど何を言っているか分からないという、そういう事態になってしまいました。

 今日はどうしようかと、さっきから緊張していまして、普段は文章を書いたりしているんですけれども、話し言葉と書き言葉の狭間にちょっと打ち震えながらですね、どうしようかと思っている間に、先ほど受付の羽生さんたち分が二人飛んでしまった分だけ、ちょっと急に早く回ってきまして、余計にドキドキしております。それで、そうこうしている内にも、ちょっと何か考えたことを一言お話ししたいと思うんですが、今、隣の方が仰ったようなことにも関連して、それから先ほどどなたか仰っていた、最近のコミュニケーションのあり方の変化というかですね、他者、それも身近な他者に対してだけ過剰に感情移入しながら、少しでも関係なくなると非常に残虐で、暴力的であったり、無関心であるうるという、遠近法の極端な姿というのは、僕、本業が社会学でありますので、しばしば近年ですね、社会のコミュニケーションのあり方の変化として、色々な人が議論するようになってきているというふうに感じています。そうしたものが例えばいじめの問題や、あるいは野宿者の襲撃とかですね、こういう問題とも関わっていると思うんですけれども、それにさらに加えてですね軍事の発動とか、死刑とかですね、こういうもの全体を貫いて過剰な感情移入と過剰な無関心を、同時に我々は要求されているというんでしょうかね、そういう社会状況が作られているということを非常に痛感しています。

 例えば軍事力を行使するというのは、非常にその、これ以上にない暴力であるわけですけれども、その軍事力を行使される側の人々に対する感情移入が限りなくゼロに近くですね、それは向こうが悪いんだから、何か不気味だからこういうふうにするしか手がないんだとかですね、最初から、向こう側とこちら側が越えられない壁によって遮断されたまま、向こう側である以上、向こう側は倒さなければいけないという、変な論理ゲームの中で、攻撃がすべて正当化されるような、そういう感性の中に我々は今、置かれているように思うんですね。むしろ感情移入というのは、そういう場面でこそ働かされるべきであって、爆弾を落とされる側がどういう気持ちになるのか、ということここで感情移入すべきであるのにも関わらず、どこで感情移入するかというと、例えば、非常に残虐な殺人事件が起こったりすると、メディアが煽った被害者に対する感情移入ということばかりが煽られて、もしかしたら、社会の中で非常に弱い立場であったかもしれない犯罪を犯した人々に対して、初めから死刑ありき、重罰ありきという中で、人々がそれに今度は裁判員という形で、さきほど途中で話が止まってしまいましたので、ちょっと、もしかうまく繋いでいられたら良かったなと思うんですが、裁判員という、逆に血祭りの祭り手に巻き込まれていくという、こういう状況が今あるように思います。

 これは軍事の問題から、社会の問題から、いじめの問題までですね、直感的には繋がっているように感じるかもしれませんが、我々の感性とかコミュニケーションモードが、きわめていびつな遠近法、過剰な無関心と過剰な感情移入とによって隔てられていくという、こういう状況の中で、今、非常にまずい中にいるのではないかということを感じています。だからどうするのかと言われても、特に答えがあるわけではないんですけれども、そういう感性を自分たち自身も、しばしば働かしてしまうと思うんですね。で、そういうことをどういうふうに自分で発見して、それを外していくかということは、人と人との協同のなかでやっていけることだと思います。これはいけないと思ったときに、同時に、もう一度自分の側を反省し返すというか、そういうスタイルを議論したり語り合ったりする中で、組み込んでいくというのでしょうかね、それが人が場を共にするということの可能性としてあるべきなのではないか、というふうに思います。たぶん活字にすると、またわからないと思うんですけれども、一応、考えたことをお話ししました。


柳下弘壽

 今に関連してちょっと。ここでメールで連絡できる人はメールで、この6.15のお知らせの文にも書きましたけど、声なき声のほぼ原形は「声なき声のブログ」に載せて、ご自分の発言は読んで、それでもし何かあれば訂正を送って下さいと書いたんですが、それはご覧にならなかったですか。私の基本的な編集方針として、あまり編集しないと・・。普通の座談会か何かのようにやりとりができれば、手を入れますけれど、一方的に手を入れるのはまずいと思うので、聞いたままを、意味がどうしても通らない場合には、こちらで適当に推察して直しますけど、それ以外は原則として手をいれていません。それですのでご了解を頂きます。だから、もし今度何かあるとしたら、印刷する前に、本文をインターネットの「声なき声のブログ」に載せますから、それをお読み頂いて直して下さい。よろしくお願いします。


金井佳子

 今から40年前くらいにべ平連の中の一つとして「非暴力」をやっていたんですけど、その時期に鶴見さんから魯迅の「故事新編」の「飛蝗」(ひこう。これでいい?)を読んでみたらとグループに言われたんですね。私はその時に、初めて、いや魯迅の名前は知っていても、読んだことがなかったので、「故事新編」とそれから「阿Q」を取り上げたわけ。ところが私にとってはもう文体があまりにもやさしすぎて、私の奥深く入ってこないんですね。どこかですり抜けていく、それからずうっと、だけど魯迅は大きな存在で、私の側に点があると、ずっと思うわけですね。わからない、理解できなかった所があるんだと。そこから20年経って、私が九十九里にいる時に、私の本棚には竹内さんと魯迅がずらっと並んでいるんですけれども、いつも視野の中にあるから、また魯迅を読んだんです。今から20年前に。で「飛蝗」も読んで「阿Q」も読むけれど、やっぱりすり抜けていくんですね。深く入って来ない。ところがお店を、私はずっと長いこと店をやっていて、それをやめて一昨年、ずっと引っかかっていたんで、もう一度魯迅を読んだんです。なんかずっと記憶の底に沈んでいて・・。それは最初に竹内さんの対談集を読んで、魯迅に入っていったんですね。

 で、私は初めて、鶴見さんに言われた「飛蝗」から40数年たって、魯迅が本当に私の中に重く、私の中に一昨年、入り込んできたんです。で、その中で竹内さんが言うように、「野草」(やそう。これでいい?)から入っていけと「野草」の中に短編がずっとあるんですね、その中の、「祝福」とか「希望」とか、私は去年、一昨年から、一週間に一遍、魯迅を読むんですよ。それくらい、つまり私の中では、原点に返るというより、幼い子どもに返って初めて解りうるということが説かれている訳ね。魯迅の中で、その「野草」の小さなものの中に、それでもっと「阿Q」というのは強く入ってきました。で、私は、ああ今、つまり私の中で魯迅というのは、発展途上みたいな所にあるとそういうふうに思うんです。で、それはどういうふうに私の中で消化していくかというと「希望」なら「希望」を読んだときに、私はお店をやって30年くらい通信を出していたものですから、やめてもそれのメンバーが集まって、2ヶ月に一遍ずつ集まるんですけれども、その人たちの所に、私は魯迅から触発されて「希望」について、私は自分の母を書くんですね、母が晩年亡くなる半年前に私に「私は生きてきて何もいいことが無かった」と言ったのが、私の中には、本当に重いこととしてあって、うちの母は明治の生まれですけれども、で、そこと魯迅の希望の中の本当にわずかな所を繋げて母を復権させるという、そういうことをやってみて、行動、まあ大きな行動には繋がっていけないけど、私の中では、今非常に子どものようになって、素直に魯迅が私の中に、で、偶然去年の暮れに「竹内好が残したもの」という黒川さんなんかも一緒にあれして、京都でシンポジウムがあって、私は一昨年から去年にかけて魯迅がずっと深く入り込んでいたものだから、友達をさそって行ったんですね。ところが「あまりに竹内さんが大きい」、「大きい」とみんなが言うんで、だんだん竹内さんの存在が遠くなっていっちゃうみたいなね、そんな感じを受けたんです。去年一年から今年にかけて、私は、魯迅がえらく私の中に入ってきて、そういうことをみなさんにお話ししたかった。


青柳知義

 埼玉県の狭山市からきました青柳です。6.15が近づくとどうも落ち着かないです。というのは亡くなった樺さんはじめ、私の友人達が捕まって傷ついたりしたことが、目の前に浮かんできて、今日も他に用があったんですが、やはり行こうということで来ました。そして、まああの一年間を振り返ってみて、みなさんのお話を伺いながら、自分がどういうふうにズレているのか、ズレていないのか、ということを確認して帰る日にしています。言いたいことはたくさんあるんですけれども、時間がせまっていますので一言いいますと、先ほど岩垂さんが指摘された問題は、非常に重要な問題で、私も全くその通りだと思っています。どうしたら小さなグループが横に繋がって大きなうねりを作り出すことが出来るのか、何か良い方法があったらなあといつも考えているんですが、なかなか見つかりません。そこで憲法を、投票法が目の前に迫っているという訳ですけれども、それを先延ばしにするか、あるいは阻止するかというのは、やはり次期の衆議院選挙というのが大きく意味を持ってくるんじゃないかというふうに思います。改憲派の議員を徹底的に落とすと、そして政権の交代をなんとかやれば、やるようにしたら少しは状況が変わるんじゃないかと思っています。じゃあ、お前は何をするのかと問いかけられたら、大したことは出来ませんけれども、頑張っていきたいと思います。以上です。


山本栄治

 神奈川県の横浜から参加しました山本といいます。初めてです。今、私の方は横須賀でですね、先ほどから色々な話が出ています原子力空母のジョージ・ワシントンの母港になりまして、それについて一昨年と昨年とですね、市民が投票条例を作れと運動をしました。最初は4万ぐらいで、次は5万になりまして、結果として負けましたけれど、非常に市民が元気になりました。横須賀はご承知のように、戦前は海軍の鎮守府だとか色々な、まさに日本の戦前のアジア侵略の基地ですし、戦後も朝鮮戦争とか、ベトナム戦争とか、今はイラクやアフガン戦争に関わっています。そういう中で我々は一緒に闘ってきた人たちを市長候補にしたわけで、28日に投票が行われるので、いろいろ運動した中で、最近は若者も非常に参加してくれましてですね、この間も集会をやったんですけれども、それぞれ非常に活躍しています。

 今の話にありますように、日本の状況というのは難しいようですけど、ただ、ずっと戦後の選挙をみますとね、かって自民党は単独でも過半数をとっていたんですけど、今は公明党とか何かとくっつかないとダメになっていますし、あちこちの地方選挙で負けているらしいですから、むこうも必死で色々なことをやっているのでしょうから我々市民も九条の会とか色々な運動がありますんで、それが連帯してやっていけば良いんじゃないかと、私は思います。以上です。


安田つたゑ

 安田と申します。声なき声の会が来年で50年という話なのですけれども、考えてみましたら、あの6.15の時、私、池袋の立教大学に勤めておりまして、ここから国会にデモに行ってたんです。声なき声の会の中にいることもあれば、私大連の中にいることもあったりして、考えてみると50年、ただただ茫々と年をとってきたなと思うんですけど、一言、感謝というか、トミさんが時々声をかけて下さって、つたゑさん来てくれたわねと言ってくれるものだから、この会に顔を出していたようなもので、そういう何というのかな、あまり積極的でもなくて周辺にうろうろしているような人たちのいる場所を作ってくれたのが声なき声だと、そういう意味で非常に感謝しています。

 資料の話が出ていましたけど、もしかして高畠通敏さんの奥様に連絡したら出てくるんじゃないかしらと思います。高畠さんが立教に勤めた時は、思想の科学の事務局と声なき声の会の事務局と、みんな着いてきちゃったような所で、多分あそこに一番あると思いますね。以上です。

(安田さんに続いて)


余川典子

 思想の科学社の余川と申します。先ほど道場さんが仰ったけど、私も、実を言いますと、パソコン上にあるというのがわかって、見た時にぎょっとしたんですけども、

全編これ、広告、宣伝しているんだなとか思ってしまって、申し訳ないと思います。でも声なき声の人たちに一年に一回こうやってお目にかかれるというのは、何かフラフラいていく自分を、道筋をちゃんとしてくれるような気がして、私は忙しくて、本当はパスしたいといつも思うんですけど、やっぱり来てしまうと言う感じ、最近は、そうなっています。で、前回、恥も外聞もなく言いました「思想の科学ダイジェスト」というのができまして、たぶん前回も言っているんですけど、類を見ないようないい本なりましたので、是非、図書館とかいろいろ見て下さい。

 それでですね、高名な先生達も色々書いて下さっているんですけれども、実はこれ、昨日頂いたものなんですけど、長野県の高校の先生がそのダイジェストについて書いて下さっているんです。それは「今こそ、平和と民主主義を!」というタイトルで、「『思想の科学』というのは偉い学者だけでなくて、普通の庶民もみんな、それこそ・・、いろんな有名人も出てくるんですけれども、そういう意味でいうと書いてあることは、「天皇制」問題とともに60年安保反対運動、べ平連運動など現実に役立つ生きた思想の追求・・」、それから最後の方に行くと「図書館に是非とも入れてもらいたい本であり、多くの高校生に手にとってもらいたい。それは憲法改正という平和と民主主義体制を問うことが国民に選択をせまられている今こそ、平和と民主主義を追求してきた戦後の歩みを知って欲しいからだ。」と、こう結んであるんです。私は、何か色々出ていましたよね、ポストモダン主義のなんとかというような・・、その他いっぱいあるんですけれども、そういうのじゃなくて、こういうふうに書いてもらえたというのは、まあ小林トミさんも思想の科学の人でしたし、それから見て頂ければ分かるんですけれども、ブントとかですね、そういう項目もみんないっぱい載っているような雑誌なんですね。そういう意味で言うと、戦後の安保闘争の時の、60年の時は鶴見さんが、一所懸命、声明文のようなものを書いていますし、ある意味で言うと、この声なき声、鶴見さんは亡くなったときは声なき声の旗を柩に掛けてくれというほどの人なので、やっぱり是非とも、元の、元というか、枝葉かも知れませんけど「思想の科学ダイジェスト」を、すいません、よろしくお願いします。


竹入マリ子

 都内からきました竹入といいます。私は正直、声なき声の会が、だんだんちょっと重荷になってきているような、というのは日頃ちょっと疲れているような感じなんですが、今回は、本多さんから「わんぱく通信」をいつも頂いていて「6月15日行きます」って書いてあって、やっぱり本多さんに会いたいし、みなさんのお顔も見たいなと思って・・。今、政治が怖いなと思って、選挙、選挙に行くんですけれども、誰に入れていいのかが、正直分からなくなってきています。民主が良いのか、社民はどうなっちゃうのか、ただやはり行けなければ、しょうがないのかなと思って、行こうと思っています。以上です。


本多立太郎

 いやー実は、僕も今、隣に竹入さんが座っているんでドキドキしています。緊張しているわけでありますけれども・・。実は、あの6.15の時、すでに私は46歳でありました。46歳のある金融機関の中間管理職で、あのデモに参加しちゃったわけであります。6.15の時に46歳でありましたので、現在何歳であるかということは、みなさんでご計算頂きたいと思うんでありますが・・。そういうものでありますので、色々な集会に押しかけたり、あるいは呼ばれたりして出ることが多いんでありますけれども、いつも、今日は黙ってみなさんの話を聞いていればいいんだなと思っておりますと、最後に、最高齢でご挨拶。まいったということになるんでありますが、そこへ来ますと、この声なき声は、出席者全員がたとえ一言でも、自分の思いを、他人に聞いてもらおうという、これは得難い集会だと私は思います。主に関西でありますけれども、だいたい2〜3人が大演説をやって、最後に決議文を読んで、がんばろうで終わる集会がほとんどなのでありますけれども、全然その気配がないこの集会というのは、これは非常に貴重な存在だと私は思います。これがずっと続いていくことを、私のこれから20年、うちの孫に言わせますと、人間は、普通に生きれば120歳まで生きるそうであります。「おじいちゃん、普通に生きてくれよ」と言われていますもんで、私も普通に生きるつもりでおります。これからも長くお付き合いをお願いしたいと思います。

 それからもう一つ。あの6.15の時に鮮烈な思い出として、これは前にもこの声なき声に書いたんでありますけれど、非常に印象深く残っていることが一つあります。それはワッセワッセやりまして、麹町を・・、確か屋敷町の壁のそばで、一息入れて休んでいましたときに、いつも参加しますと、声なき声だったか、他の集会だったかわかりませんけれども、確か練馬だと思うんですが、練馬から来た若いお母さん、これが確か2〜3年続いて出てましたんで、そのお母さんに「大変ですねえ」って、思わず言っちゃったわけであります。そうしたらそのお母さんが、キッと私の方を睨むように見上げて「いいえ。だってこの子の為ですもの」。この一言が実に、もうギクッと釘を刺されたように胸に残りました。そして、女性の顔っていうのは、結婚式の時のうちの嫁さんの顔が一番綺麗だと思っていたのでありますけれども、この時の若いお母さんが、実こ綺麗だった、これは誠に、だから女性という、あえて言えば生き物は、ある時期ものすごく美しくなる、これが当にその瞬間だったなあと、思います。終わります。どうも失礼いたしました。


柳下弘壽

 ちょっと紹介します。本多さんの後ろにいる男性は、韓国から日本の民衆運動について取材に来られた方で、名前がソ・シェチョルさんで、その隣の女性の方は、通訳の方です。彼は2004年にも一度この会に参加されています。そう言われれば、何か、その時にも通訳で話されたという記憶があったんですが、とりあえず今日の、よく分からなかったと思うんですが、もしよろしければ感想などをお願いします。


ソ・シェチョル

 初めまして(これは日本語で挨拶された。これ以降は通訳の言葉)

 韓国から参りましたソ・シェチョルと申します。2004年に初めてこの場にきたことがあります。今日は2回目になります。現在、韓国の市民団体で「グリーン・コリア」という団体で活動していますけど、日本で反基地運動をなさっている方と連帯しながら活動しています。日本で反基地運動のあり方とか色々な姿、そういう立場とあと60年の安保闘争の当時の闘いの現場、あと今、草の根というんでしょうか、市民運動のそういう活動を、いずれ韓国にも紹介しようと思って記録をしています。平和は必ず勝つと思っています。だから平和を愛している日本と韓国がこれからもずっと長く付き合いながら、一緒に頑張っていければと思っています。ありがとうございます。


清水澄子

 東久留米市から来ました清水といいます。いつも仕事と母の介護でてんやわんやで今日も仕事を途中で抜け出して、見たら手が真っ黒なんです。声なき声との付き合いは、以前私は「思想の科学社」で仕事をしていたものですから、かれこれ30年になって、よくよく考えたら、東京を離れていた時は出席出来ませんでいたけれども、考えてみたら89年からはずっと来ているんですね。89年というともう20年前になるんで、ちょっとびっくりしています。私の中で声なき声の会というと、やっぱりトミさんの存在が大きくて、「声なき声の会」=(イコール)「小林トミ」みたいなものが、私の中にいまだに、まだ、それはすごく大きい存在としてあるんですね。去年も感じたんですけれども、去年、たまたま日曜日で昼間だったからかもしれないのですが、ふとみなさんの話を聞いていたら、初めて参加される方だとか、2回目だとか、トミさんが亡くなられたのが2003年の1月2日でしたから、もう6年5ヶ月経って、トミさんが亡くなられてからの声なき声の会というのは、これで7回目なんですよね。ですから、トミさんのことをご存知でない方が、出席されているということを、去年、はたと気づいて、これはどういうふうに理解したらいいのだろうかと。私の中で「声なき声の会」=「小林トミ」でしたから・・。でもこれはトミさんの姿勢とか、志とかを思ったら、こういうことを一番喜ぶのはトミさんなんだろうなと、すごく去年思いました。で、今日も、初めて参加という方もいらっしゃるし、2回目、3回目、要するにトミさんのことをご存知でない方がいらっしゃる訳ですよね。だから「新しい」という言い方もまたちょっと違うかもしれないけれども、確実に一つの、別の形での声なき声の会というものを少し歩き始めている。もちろんトミさんとは、切って切り離せないけれども・・。それをすごく、去年感じて、今日も感じています。

それからさっき、「思想の科学」の余川さんの方から「ダイジェスト」の宣伝がありましたけれども、一応、私もかつて関わっていた関係からか、私にも「ダイジェスト」を何本か書けという指令がきて、下手なダイジェストを担当したんですけども、その中にトミさんの書かれたもの、小林トミさんが「思想の科学」に書かれたもののダイジェストをやれというのがいくつかありまして、改めて読んだんですね。そうすると、その、すごく面白いんですね。市民運動に関するものばかり書いている訳じゃなくて、考えたらトミさん、「貝がらの町」とか、自分の生い立ちのこと、浦安のことを書いたりとか、そういう本で幼いときの思い出をすごく叙情的に書いていらっしゃいますよね。そんな中で平和のこともいつも考えていた。その中でにすね、盆栽愛好家を訪ねて、そのお話を聞いて回ったというようなものも書いていたんですよね。それを読んで、ああ面白いな、トミさんこんなこともやっていたの、と思わず感想を持ったんですけれども、それで偶然思い出したのが、丁度この会にも関わって下さって、亡くなられた「めだか診療所」の上野博正さんが出版記念パーティーをやった時に、出席される方の短評みたいなものを、プロフィールを短い言葉で書いていて、確か小林トミさんのことを上野さんが「歩くこと、しゃべること、描くこと、全てを継続することに意義を見いだす人」というふうに紹介されていたんですね。ものすごく納得がいったという記憶があるんだけれども、ただ漫然と参加するだけなのはまずいんじゃないかという思いもありながら、やっぱりトミさんのように歩き続けて、それからしゃべる、しゃべることがものすごく好きな方ですから、しゃべり続けて、こういう付き合いを大事にしていく、そういうトミさんの良いところを、私の好きだったそういうトミさんのそういうところを、私たちも受け継いで、来年の50年、それから50年の次のこの会を歩んでいけたらいいなと思っています。

 それから補足ですけど、さっき鶴見太郎さんが紹介されていたけれども、この会の設立の資金というのが、上坂冬子さんが「職場の群像」というノンフィクションを書いて、「思想の科学新人賞」をとって、その時の賞金が3万円だったそうです。その3万円を「私、いいです」と鶴見さんにお返しして、そしたらそれを鶴見さんが高畠さんに渡して、高畠さんがこの「声なき声」の設立の資金にしたと。それはつい最近PHP新書からでた「対論 異色昭和史」、この中にそのエピソードが紹介されています。私、この中に書かれているエピソードを知っていることも多かったりしたのですけれども、上坂さんの3万円がこの声なき声の会の設立の元になっているというのは、私は初めて知ったので・・、上坂さんて、憲法に対する考え方などすごく違う方だけれども、そういうところで繋がりがあるというところに、何か不思議な縁というこのを感じました。

 あともう一つ、長くなってごめんなさい。4月の12日にETV特集で、鶴見さんの特集があったんで、多分ここにいらっしゃっている方もご覧になった方が多いと思うんですけれども、その中でもトミさんのことが紹介されていて、去年の6.15の写真がぱっと出てきたんですよね。実はあの写真をとったのは私なんです。この写真が使われていたんだけれども、これ吉川さんと鶴見さんが中心に写っていて、鶴見さんと吉川さんに差し上げたんですよね。どういう経緯であの番組に使われるようになったのか、私は分かりませんけれども(会場から「それは吉川勇一さんから提供されて・・」)、あそうですか。一応私が撮った写真なんですね。すごく良く撮れているんですよね、表情がね。だから後で、もし使うなら、是非使って下さい。すいません、長くなってしまって。

細田伸昭

細田です。声なき声の50年ということで言うと、1960年は、どなたかが小学校4年生といいましたけれど、私は小学校の1年生です。当時安保ごっこが、やっぱりあって、子どもどうしでぶつかり合うという遊びをよくしていました。そのころ丁度テレビが家に入ってきて、安保闘争を映像で、ニュースで見てました。その中に女子学生が負傷して運び出される映像があって、後で聞いたのですが、映像の人は樺さんではなかったということなんですが、そのシーンが、幼心にものすごく印象に残っていて、それで6月15日というのを、自分の中ですごく意識をしてきたと思います。高校生の時は70年安保の時だったのですけど、その時に、あまりためらいもせずデモに参加していったのは、そういうのが元にあったのかなというふうに、今みなさんの話を聞きながら思っています。

 僕自身が、声なき声に具体的に関わるのは、この間、柳下さんからメールが来て、色々な写真の整理をしていて、僕はカメラが好きでよく写真を撮っているんですね。自分の持っている写真で一番古いのが1980年の6月15日だったです。それよりも前に声なき声の6.15集会には参加をしているんですよ、たよりを見ると。ですが、さすがに最初の初参加で写真をバチバチ撮るというのは、たぶんできなかったんだろうなと思って、1980年から後の写真は、2回くらい都合で来られないときがあったんですけど、それ以外はたぶん写真を撮っていると思うんで、来年に向けて、写真を整理してみたい思っています。そんなことで6月15日、ずっと出てきているんですけど、ここへ来てこの1年間自分が何をしてたのかなと振り返って、自分の立つ位置をもう一回見つめて、で、頑張っていくぞと、そういう決意を新たにする会になっていると自分では思っています。だから来年も頑張ってやりたいと思っています。よろしくお願いします。


北村三津子

 北村美津子です。今回NHKで放映された写真提供者に、とても感謝しています。左側に鶴見さん、吉川さん、で、私が、鶴見俊輔さんの腕をとって数年来、いつも写真をとらせて頂きまして・・。びっくりしました。写真がテレビに載って・・。大木さんとともに写っていました。


大木晴子

 プロデューサーの坂本さんが、最後の最後まで、あなたの名前を私も思い出せなくって、何度もメール交換していたんですけれども、たぶん大丈夫です、この会に来た人だからと、私がゴーサインをだしたんです。


北村三津子

 そうだったんですか。ありがとうございました。嬉しかったです。今58歳になるんですが、18歳くらいの時には、明日にも革命が来ると思っていて、私は革命と結婚して、男とは結婚しなかったんですよね。私は、畳の上では死ねない、道端で死ぬんだというふうに思っていた時期が、本当にあったんですね。今日デモに行かなければ、明日、日本は変わってしまうと、そういうふうな、もう胸が燃えて燃えて、男の人が来ても何とも思わないし、何かそういう・・。それで何十年来ちゃったものだから、男性が来ても全然わかんないと、本当に革命と結婚しちゃったんだな。それで何十年経って、この会に20年くらい前から寄せて頂いているんですが、その時は物足りなくって、何か、と思ってたんですが、すっと考えると、みんなそれぞれで活動していて、ここで再確認し、また改めて自分の場に帰っていくんだなと。こういう会があってもいいなあ、で、はるかに自分より年上の方が多くって、それが最前線でずっとやっておられるという、これはもう希望ですね。だからびっくりしました。ちょっとエネルギーが落ちているので、パワーアップしてやっていきたいと思います。よろしくお願いします。


柳下弘壽

 今日はめずらしく時間が少しあるので、ちょっとだけ、司会者としてでなく・・。私、柳下といいます。横浜に住んでいます。先ほど吉川さんが脳梗塞、私も8月、ご丁寧に、一月の間に二度倒れまして、非常に軽傷なんだけど、なんかとにかく公平にと考えたのか、最初に左脳で、次は右脳で、左右の上肢・下肢、まだ軽い麻痺が残っているんです。いや、その話じゃなくて、それで結局、私、気が付いたのは、いままで例えば、バリアフリーなんとか言って、「ああっ」なんて聞いていたんだけど、自分がそのバリアフリーの恩恵を受けるようになって、初めてバリアフリーっていうのはいいなと、というのは、階段なんかですと、上るのは何とかいいんですど、下りるのはこれ大変なんです。だからバスなど上るのは大変なんだけど、降りるのはもっと大変なんです。要するに下に着くまで、片方の足で支えるというのが非常に難しいんです。だからバタンと落ちちゃうんですね。それと同じで、これから先、要するに平和を失ったときに、平和のありがたさを痛感するようでは困るので、そういうことが無いように、私はわずかな経験で、いままで普通に出来たことが出来ないんですよ。要するにガンコウシテイ(?)というか、ちゃんと避けたつもりが避けられずに、踏んづけちゃったり、そういうことが多いのと同じように、平和もやはり、できることならこのまま続けて・・。まあ少し平和ボケと言われてもいいけれども、なんとか守るようにしていきたいと思っています。


中島暁

 すいません、遅くなりまして。小学校の教員をしています中島といいます。いつも最後の方に来ることになってしまって、仕事が終わって来ると、実際にこんなような。それでも仕事を持って帰るような状態なんですけれども、だんだん学校も厳しい状態になっています。ここに来るのは、まだまだ若造で、来始めてまだ10年そこそこというか、そんな感じなので、時々は抜けながらなんですけれども、事の起こりは、本多立太郎さんとの付き合いから来るようになったのです。一つは本多さんに会いに来ることもあるんですが、もう一つは、やはりほんの僅かしか僕は聞けていないんですけれども、来て、先輩方とか色々な方たちの話を聞けるので、心が、何というのかな、穏やかな気持ちの平和運動というのか、そういうのを自分の糧にしたいと思っているんです。前にもお話ししたことがあるかもしれませんが、教員ですから、例の日の丸・君が代の問題がありまして、僕も処分をされていて、裁判をやったりといろいろなことをやっているわけなのですけれども、そういうのは一応、ナカの活動として、学校でもいろいろな取り組みをしたりとか、いろいろな所へいってやっている訳なんですけれども、そういうものを、ぐっと落ち着いて考えてみる目を自分でも持ちたいなと思うので、こういう場を大切にして自分を養っていきたいと思いますので、これからもよろしくお願いします。


青木和子 

 森田健作という人を知事に選んでしまった千葉県から来ました青木と申します。今朝、TBSラジオを私よく聞くんですけど、大沢悠里のゆうゆうワイドというのを午前中にずっとやっていて、家にいるとラジオをかけっぱなしなんですけど、そしたら「今日は6月15日で、樺美智子さんという方が、国会で、デモの中で亡くなった」ということを話されたんですよね。初めてじゃないかなと思ったんです、そういうこといままで話されたことがなかったので。本当にビックリして、嬉しかったです。大沢悠里さんという方も大学に入ったばっかりだったのだけれど 、自分も行っていたというような話をされていました。で、この頃は学生さんが静かなので残念というようなことも話され、嬉しかったです。104号の、ごめんなさい私、インターネットはだめなもので、全く、ここで初めて見させて頂いたのですけれど、11ページに私が発言したのがありましたけど「松戸に住んで6年」じゃないんです、40年なんです。5月3日の憲法記念日の集いというのを60以上の色々な団体・グループが一緒に松戸の市民会館でやる、その集いが始まって去年が6回目だと言うことです。今年は7回目でした。緩やかに繋がって九条を守ろうというその一点だけで、5月3日の集いというのをやっています。今年は念願の金子勝さんをやっとお呼びすることができました。で、もう一つ楽しいイベントの組み合わせがあるんです。その時に韓国のコッタジというグループが丁度日本に来ておられて、上野の水上音楽堂でしたよね、その公演の次の日が松戸だったので、お呼びすることが出来て、とても好評で、いい演奏を聴かせて頂きました。韓国の市民運動の盛んな様というのも漏れ聞いてはいるんですけれども、ああいうグループもその中で頑張っていらっしゃるんだなと思って、ちょっと羨ましいというか、いいなと思いました。

 私としては図書館運動を、門外漢なんですけど、17年続けてきています。図書館運動というのは、全くわからないで始まったのですけど、やればやるほど大事だなということ、それから面白いということがわかってきて、去年、会報をずっと出し続けてきていたんですけど、15年分まとめて合本を出しました。462頁、B5版の、2センチちょっとの厚さのあるものなんですけど、続けていることは、形にするとこういうことになるんだねと、みんなで出来たものをみて感動しています。過激じゃないけども、続けていることの大切さというのは、トミさんの姿勢から、私は学んだと思っています。毎月の声なき声の会の会合がありましたよね。それも10人どころじゃなくて5〜6人とかね、そういうことがあってもトミさんというか、みなさんちゃんといらっしゃる方はいらして、続けてらしたというそれを見てたので、私も毎月例会というのをやっているんですけど、たまには二人ということも、何回かあったりするんですけれども、止めるのは簡単だけど、でも続けようという、何か話したい人が来るかもしれない、何でも話せるような、そういう居場所があるだけでもいいかと思って続けています。まだ止める気はないんです。でも周りはくたびれて、行政が相手だと暖簾に腕押しというか、疲れて止めていくグループがぽつりぽつりと、歯が抜けたように無くなっていってるんですけど、とにかく続けていこうと思っています。色々な図書館を見学に行ったりするんですけど、先日初めて、国会図書館を知らなくちゃねというので、前に自分で行ったときはどうしていいかわからなかったんですね、だから今度は見学会ということで、予約・申込みをして見学させて頂きました。そしたらあそこには、カウンターの上の所に「真理が我らを自由にする」という言葉が書かれているんですよね。金森徳治郎さんという方、いらっしゃいましたよね。あの方の自筆の字で掘ってある、それが一番目立つ所に大きく書いてありました。図書館てこれなんだよなと思いました。大袈裟に言えば、民主主義の砦と思っています。国会議事堂の前にその国会図書館があって、そこにはこういう言葉が書かれている、そういう重みというのを感じて帰ってきました。また来年もみな様にお会いしたいと思います。ありがとうございました。


羽生康二 

 鎌倉からきました羽生と言います。この頃だんだん夜の集まりに出るのが億劫になってきたんですけど、この会だけは必ず出たいと思って、頑張って、来年も、来年はきっと50周年ということで、もう少し盛大に、集まって下さる方いるかもしれませんけれども、でも、もう今日みたいに何十人て集まっていたのも、それこそ今、青木さんが仰ったように3人とか5人の集まりを見てきたことから考えると、ものすごく多くの方が来て下さったと、大変ありがたいことだと思っています。また来年も、出来れば、出来ればというより必ず参加するつもりで、また色々とお手伝いをしたいと思っていますけれど・・。よろしくお願いします。


細田伸昭

 来られなくなった方がメッセージを送ってくれたというので、よろしくお願いします。


椎野和枝

 すいません、再三マイクを持たせていただいて、ご迷惑をおかけします。一言だけ申し上げます。先ほどから途中で、飛び出したりしていましたのは、みなさんも覚えていらっしゃいますか、5年ほど前なんですけども、福島瑞穂さんが、いつもこの会があることをご存知で、献花の時に一度参加されまして、鶴見先生とも対談なさっているので「今日も会いに行きたかったんだけれども・・」と電話が入りました。それで、今日は鶴見先生はいらっしゃらないということを言いましたらば、みなさんに是非伝えて欲しいということでした。

 それは「憲法調査会は、先週、自民党の強行採決で通ってしまった。だから、これからは改正案の作り方がどんどん進んでいくという状況になるだろう。私も国会の中で阻止することに頑張るので、みなさんにもどうぞ応援をして欲しい。」ということでした。私は松本さんと一緒で、福島さんも麻生区の本当にご近所さんという関係でこのようなメッセージを受けております。じゃあみなさん「一緒に闘って下さい」というメッセージをお伝えして、終わりにします。 


柳下弘壽

 去年の6.15の国会南門の前で撮った写真です。今日ここに来られた方、かなり写っていると思うんです。これは丸山さんが撮ったのですが、声なき声の会のホームページに掲載してありますから、パソコンの出来る人がいたら、SDカードでも何でもいいから、それをコピーして、量販店にいくと自動のプリンターがありますから、たぶんこれくらいで100円ちょっとかな、そのくらいでプリントできますから、もしご希望の方は、声なき声の会のホームページを、今日は声なき声の会のホームページを盛んに宣伝していますけど、見て下さい。

 それでは、これから片づけをして国会南門前に行きたいと思います。何人かこのお花を持って行って下さい。

                                (終わり)
posted by luge at 15:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年6.15集会の記録

今年も、細田さんが「起こして」くれました。
とりあえず、「生」です。お気づきのことがあれば
柳下弘壽まで。
なお、この集会で元気に発言されていた、松本市壽さんが
8月に心筋梗塞で亡くなられました。ご冥福をお祈りします。


声なき声の会 2009年 6.15集会の記録 (1)


柳下弘壽

 時間になりましたので始めたいと思います。まず、一つは来年が50年ですから、私の一存で、ああいう(注:ホワイトボードの字を指して)「これまでの50年をふりかえって」と、それから私的には持てないと思いますが「これからの50年」と、これはまあ誰かがやってくれれば「50年」。これはさすがの本多さんも私もこれからどのくらい付き合えるかわからないですが・・。

 一つは多少宣伝といってはなんですが、事前に「声なき声の50年」というのを宣伝しようと思いますので、来年はまだこの会場は使えるんです。使えるんですけれども、この会場は最大で60人なんです。ですからちょっと宣伝なんかすれば60人では入れないんじゃないか、だから来年は、会費をいただいてどこかの市営というか料金を高くとられる所、その中でもなるべく安いところを探して、もう少し収容人員の大きいところを借りてやりたいと思っています。

 でまあ、今日は出席されるかどうかわかりませんが、鶴見さんのNHKの放送があったその前に、頼まれて古い資料、写真などをいろいろ探したんですけれども、要するに60年から70年の、ほとんど写真などの資料が集まらなかったんです。で、まあこの機会ですからみなさんの引き出しを掃除して、そういう写真などのを集めて・・、出来る限り集めたものをきちんと残しておきたいと思います。それから、もう存命の方でも病院に入ったり・・、望月さんは存命でけれども、身体もお元気なんですけれども、記憶が、寿美ちゃん、要するに静岡時代にもどっちゃっているんで、もう息子さんも時々間違えることもあるらしいんですよ、ただ食欲は非常に旺盛らしいんですよ。ただそういう事情で60年の最初に参加された方はほとんど、今度いろいろと調べた結果、ほとんどいないんじゃないかと・・。それで改めてお願いしますが、一度引き出しを開けてひっくり返して、写真その他を探して頂いて、あったら送っていただいて、必ずそれは返却いたしますので、それでこの50年のために何人かが、有志に集まっていただいて、どういうことをするか、今は私、おおざっぱに言いましたけれど、その内容、それから手伝えることその他を募集したいと思います。そしてこれから一年、来年の6月15日に向けて、いろいろと準備をしたいと思いますので・・、ただこれも声なき声と同じで、登録していただいて、出来ればやっていただくと、暇になったらあるいは参加していただくという形で結構ですので、よろしくお願いいたします。

 それからいつものようにそれぞれお話していただくことにしますが、今年は終了を8時45分と細かく区切りました。理由は、9時までやっていると後かたづけをする人が大変なんです、忙しくて。だから、今日は今のところそれほど人数が多くないんで、そういうことはないと思いますが、もしこれから増えて話ができなかった方は、終わって南門まで行く途中、あるいは南門の前、それぞれテープでお話を吹き込んでもらうようにします。だからお話をされる方は、時間をあまり気にせず、でも少し気にしていただいて、お話いただければと思います。

 それからお手元に去年の、去年はとにかく人数も多かったんで、私がだらだらやって、長時間やって大作になってしまって、細田さんに大変なご迷惑をおかけしました。まあそれはこういう形で、少なくともどういうことをやったかを残しておくことは、私は非常に重要なことだと・・、今度鶴見さんの件で、いろいろやりましてけれども、思うように集まらなかったので、改めて思いました。ご協力下さるようお願いします。では始めたいと思います。

 で、今日はまたマイクで・・・。


細田伸昭

 あの去年ですね、マイクをなくしてICレコーダーで回したんですけれども、耳がちょっと遠い方がいらっしゃったりして、よく聞き取れないと言うことがありました。で、今年はマイクを入れて、ICレコーダーは脇でとることにしますのでよろしくお願いします。


西村幸一

 えらいところに座ってしまったと思いまして、トップバッターということなんですか、私は、埼玉県の入間市という航空自衛隊のある基地の町なんですけれども、そこから参りました西村と申します。この集会、あるいは国会での献花は、去年初めて参加をさせて頂きまして、今日が二回目ということになります。先ほど「これまでの50年、これからの50年」と言われましたが、私は60年安保の当時は小学4年生でした。ですから樺さんの13歳下になります。樺さんの通っておられた神戸高校のある町で小学生だったんですけれども、「デモごっこ」というのをやったことを今でもよく覚えています。「安保反対!」って言って、小学生だったんですけれども、商店街とかメインストリートをデモ隊がたくさん通りましたので、そういう真似をしたり、あるいは学校の先生がですね、授業をやらないで、デモにお出かけになる、で、自習だと言うことで図書館というますか図書室にいますと、2階に図書室があったんですけれども、下を先生達が手を振りながら通ったのをよく覚えています。で、それが小学校の時の思い出で、もう一つつまらない話しをさせて頂きますと、よくなぞなぞとかを小学生の時にやったんですけれども「国会で裸足で歩いた政治家がいる。誰だろう」とかいうのがありましてね。ご存知の方もあるだろうと思いますが、やや出っ歯だった岸信介さんだと・・、そんなことを言っていたのが小学生の頃です。

 高校生になりまして、当時はあまり何も分からなかったんですれども、三一新書で出されました樺さんの「人知れず微笑まん」という本を読んで、ああすごい人だなあと、しかも町の名前とか、自分の住んでいる町の名前とか出てくるんもんですから・・。そういう意味でも、親しみを持ちながら、真剣に社会のことを考えて22歳で生を閉じざるを得なかった、こういう人がいたんだということに非常に大きな感銘といいますか、印象を受けました。

 今日は本当に久しぶりに「人知れず微笑まん」を拾い読みしたり、あるいは樺さんについて書かれたコガラシコハチロウ(?)さんでしたっけ、コハチロウという作家の方が書いたのを読んだりして、少しゆっくりと当時のことを思い出したりしていました。その中でとっても印象に残った一行詩がありますのでご紹介させて頂きたいと思います。「樺美智子よ星になるな ぼくらの肩に乗れ」という一行詩をかかれた人が当時いたそうです。なんだかとってもいいなと思いました。来年もまた参加させて頂きたいと思います。どうもありがとうございました。


上原隆

 台東区から来ました上原隆と申します。私は1970年くらいに大学生になったんです。その時はやはり政治運動が盛んで、1960年って、10年前ですけれども、ずっと昔のような感じをもって、その時は生きていました。今から考えると、それよりも長い時間が経ってしまっているので、その時間の感覚っていうのが不思議だなと思うのと、1970年頃、学生をやっていたときに、政治活動をしていて、いろいろな会議で世界はこうなっているとか議論をして、私はあまり活動が・・、日和見とかといわれて攻撃されて、そのことがすごくつらかったんですけれども、そのときの会議は、いつも世界はこうなっている、日本はこうなっている、大学はこうなっている、だから君はこうすべきだという話しの順番でした。このことがどうして自分は行動できないんだろうか、勇気がないんだろうかとか・・、すごくそれなりに悩んで、その時しばらくしてから考え・・・、考えてですね。それは世界が先じゃなくて、私が先じゃないかと思って、私が何をやりたいのか、何を不満に思っているのかという所から始めなければいけないと、それで私を掘る所から始めますというんで、一緒に政治活動をやっている仲間から外れました。

 自分を掘り続けた先に、たぶんまた合流するかもしれませんと言ったんですけれども、それからもう何十年もたって、掘ってても、掘ってても・・、それほど熱心に掘っているわけではないんですけれども、自分が行動すると言うところになかなか行き当たらなと思って、それで、もう自分の内面を見るのは、ほどほどにいいんじゃないのというのが10年前くらいに考えた所で、少しずつこういうところに出てくるようになりました。ここに来たのは3年目です。で、この会で偶然いろんな方と会ったりして、それで小さなサークルに参加するようになったりして、去年一年はとても楽しい時期を過ごしました。また来年も来ます。ありがとうございました。


山田幹夫

 初めて今日は参加させて頂きました、千葉県習志野市から参りました山田と申します。3月で高校の教員を退職しまして、31年ばかり教員をやっていたんです。それで、自分なりに反戦平和というんですか、社会科の教員でしたので、倫理とか政治経済とか世界史とか、いろいろな科目を教えましたけれども、何を教える時にも反戦平和というのが頭の中にいつもありました。この集いが・・、この集いはもちろん、当初からのいろいろな歴史を、本を通して、鶴見先生とかの本やいろいろな本を通して存じあげているんですけれども、ここには本当に、みなさん、反戦と平和に対する思いの強い方々が集まっていると思ったものですから、今日は初めてお会いして、みなさんからそういう熱い思いを自分も頂いてですね、これから何らかの形で、反戦平和の一助となるような行動をしたいなと思っております。よろしくお願いいたします。


針生圭吉

 埼玉から参加させて頂いております針生と申します。この会は今回3回目になります。丁度今頃の時期・・、私は生協に勤めているのですけれども、総会のシーズンでですね、去年も一昨年も来たかったんです。先週、総会、総代会を終えてですね、今年はやっとやって来ることができました。で、なんで生協の話しをするのかということなんですが、生協、今、全国で2400万世帯をこえたのかな・・、非常に大きな組織になったわけですが、かつては平和の運動の所でですね、生協の虹の旗がいつも先頭というか、あちこちにたっていたものですけども、最近は平和のへの字も出てこないという状況でございます。一昨年こちらの方に参加させて頂いたときに、そんなことを含めてですね、語り継いでいくことの難しさというのと毎日格闘していますよという話しをご報告させて頂きました。相変わらずそんなことをやっております。

 今日、先ほど受付の方で拝見いたしましたらば、「ひめゆり」見て下さいと・・、チラシがありまして、実は私たちの所も去年上映運動をやりまして、埼玉の浦和でですね、さいたま会館で2日間、4回上映をましてですね、約2000人の組合員さんを含めて若い人も集まって頂けました。これはやはり一人ひとりが思いや意志を持っていくと、こういう力になるんだなと改めて実感をしております。一人ひとりの声は小さいけれども、やっぱりどこかで、私たちの子供や孫にですね、伝わっていくような・・、50年という話もありましたけれども、アリの一歩でも頑張りたいなと思っています。よろしくお願いします。  


松本市壽

 私は川崎市の麻生区からきました松本市壽です。この会はべ平連の草創期ころからトラックを出して、先頭に立ったということがありまして、これが・・この時は、まだ参加していなかったんですけれども、でも、この会がもう50年になるかということで、実はビックリしている訳でして、まあ会としては、あまり熱心な活動家ではなかったんですけれども、べ平連の時は、初期の頃はかなりやったなあと、この声なき声の会は小林トミさんが先導しましたので、まあ、口ばっかりのインテリって言うか知識人とは違って、小林トミさんはとにかく動く人でしたから、この動く人は手伝わなければいけない、あと口ばっかりの人というのは屁にもならないので、なるべくそれは避けるようにしていたんですけれども、トミさんに惹かれて声なき声、べ平連が一段落してからはずっと・・、でもとみさんが亡くなって・・、それから先だってNHKのBS放送が、べ平連の活動のアンソロジーを作りたいと取材に来たんですね。なんで僕みたいな無名の人間に来たんだと聞いたら、もう偉い方が順番に亡くなったんで名簿を括っていたら生きていたのはこれとこれで、あんたといいだももさんとかね・・、そんなことで来ましたというようなことで・・、まあ生き残りというのは、多少やったということを伝える、そのクシ(?)にはなるのかと思うわけですね。今はほとんど、この会だって一年に一回だけ、それが続いていることが驚異的なこと、だいたいその声なき声のたよりを百号までやりたいというのがトミさんの悲願でしたけど、百号を越えても柳下さんが頑張って下さって、こういうふうに続いていると言うことが、私は本当に・・、そのうち潰れるだろうと思っていたんですけれども、年に一回でもね、みなさんこうやってこれだけの人数が集まるというのは、本当にありがたいことです。嬉しいことです。

 私ももう間もなく、もう10年持つか持たないかという年になりましたけど、まあこうやってやったという昔の話をしゃべれるような・・、だんだん先輩が亡くなったんで、それが非常に寂しいことですけれども、出来るだけ出るようにしたいと思います。どうも失礼しました。


岩瀬弘

 神奈川県三浦から来ました岩瀬と申します。私は60年安保で6月15日の当時は国会に行っていたんですけれど、家庭教師があるので途中で帰ってきてしまったんですけれど、後から樺さんの話しを聞いて忸怩たる思いが今でもしているんです。私は今回で3回目です。昨年はちょっと事情があって欠席してしまいました。ここへ来るとみなさんの話しがリアルで、活動的で、大変な刺激をいつも受けています。今年は・・、一年前と今年を比べると、世の中が激変してしまったですね。昨年9月のリーマンショックで、世界同時不況に突入して、一方では昨年、九条世界会議は成功裏に終わったし、まあ、改憲、九条「改正」の問題も、なんか歯止めが出来たように、私はすぐに・・・・(聞き取れず)ですけれど、昨年のこの会で、いやそうじゃないんだ、いつそういう問題がでるか分からないから、油断してはいかんという、去年もここでそういう話しになったということを後日聞かせてもらいました。まああの世界的に見た場合、アメリカ帝国主義が完全に崩壊したと、一国覇権国家主義の崩壊、でそれはもうブッシュからオバマにかわって、ベターとは言え、このアメリカの病根というものは、簡単には、私は治らないと、その滅び行くアメリカに、今でも政治、経済、軍事、・・日本は依存している、隷属国家なわけです。

 また経済が少し持ち直したようなことをメディアがいってますけど、確かに株価なんか上がってきてはいますが、基本的にはアメリカ追随である限り、私はこの、相対的貧困あるいは絶対的貧困、それから格差社会、これは延々と続くんじゃないか、しかもまあその中には基本的人権も侵害されるような問題も出ている。で、こういう点はEUなんかとは大分違う、ドイツなどの行き方と比べて日本というのは、相当遅れているなと私は思います。今は表面化していませんけど、貧困と格差が続けば、それはやがて憲法改正とか、九条放棄に繋がる危険性が多分にある。みなさんご承知のように1929年に始まった世界恐慌で、ドイツのナチズムが出てきたんですけれど、これは国民に歓迎されて出てきているんですよね。ですから、やっぱり平和と貧困の問題というのは表裏一体のものである、従ってそう言う意味で、我々は経済問題に注視すると同時に、今の平和憲法を守るということに・・、平和憲法を守ることを死守していかなければならないということを、私は最近感じるようになっております。以上でございます。


村雲司

 横浜からきました村雲と申します。毎週一回、新宿駅の西口で、自分の意見をプラカードのようなものに書いて立っております。もう6年から7年くらいになって仲間も、今日一緒に来ています大木さんなんかと一緒に続けています。最近、今仰ったようにいろんな問題が社会の中にあるんですが、いろんな方がデモが組織されないから、なかなかそう言う機会が、自分の意見を表す場所がないということを仰る方が多いんです。けれども、いろんなやり方があるんじゃないか、僕らの仲間の一人は「一人でもデモ」というのを書いて持っています。「一人でもデモ」はできるような気がします。街角とか駅前に、サンドイッチマンのようにちょっと勇気がいるんですけれど、立って、そしてその週あった事でも、自分の意見を持って立っている、そんなことを思って立っています。まあ、みんな振り向きもしない人がほとんどだから、非常に当てのない試みなんですけれども、まあ当てもないと勝手に思いこまないようにと思ってやっております。

 話がかわりますが、私、日の丸をみて爽やかな気持ちになる日が一日だけあります。それは憲法記念日の朝、日の丸を見て、ああこの日、日の丸を見ながらどんな事を思ったかというのを・・・、終戦後の2年間ぐらいにそんなことを思われたみなさんの気持ちを思ったりします。今年はその日、意見広告が、朝日新聞の一面広告が出まして、私もそれに参加させて頂きました。一人2500円で、数千人集まってやりました。朝日新聞の全国紙と北海道新聞、一面広告、ぼくはいつもこれだけお金が集まったら、他に使えるんじゃないかなどと第三者的なことを思ったりして、当てのない気持ちになっていたんですが、その後、インターネットでブログを見ていましたら、釧路のご夫婦なんですが、その広告を見たことを書いていらっしゃいました、5月の3日に。奥さんは病気で寝ていらっしゃって、旦那さんが朝の食事を作っていらして、奥さんが「ちょっとちょっと」とすごく明るい声で言われて「こんなことすごいよね」と仰って、それを見せられたということが書いてあったんですね。ぼくら、非常に当てがないんだけれど、やろうと思っても出来ない人の、なんかちょっとでもエネルギーが与えられた、エネルギーとして伝わったんじゃないかなと思って、その時、なんかちょっと感動しました。運動とかいうのは、当てのないものなんですけれど、勝手に思い込まないで、これからも続けていこうと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。


工藤明美

 板橋区の工藤明美と申します。初めての参加です。60年安保、それから声なき声の会というのは言葉としては知っていたんですけれども、毎回、みな様がこうやって集まっているというのは、本多さんから伺うまで知らずにおりました。私自身はなんの活動もしていない一主婦なんですけれども、最近、我が家では常識と思えることが、どうもご近所の方と話していると非常識のような部分がたびたびあります。そんな時にどういうふうに話したら周りの方を説得じゃないですね、周りの方にも納得していただけるんだろうかということをいつも思っています。今日はこの会に参加して、少しでも勉強が出来たらいいなと思っています。よろしくお願いします。


渡辺一衛

 渡辺一衛と申します。声なき声は古くからずっとお付き合い、だったんですが、なんとなく最近は気後れがして、6月15日になると、行かなきゃなあと思うんですけれど、いざとなるとつい億劫になって、ここ二〜三年失礼しています。まあ今年は是非行かなくてはと決心して、来ました。昔の人にお会いできると思っていたんですけれども、私が来ていない間に、新しい方がたくさん来ていらっしゃるんで、ああずいぶん声なき声の会もかわっていくんだなと思って感心しています。

 50年ということなんですが、私が親しくしていた人に東山薫という人がいて、成田でガス弾に撃たれて死んだんですけれども、それから30年くらい経ったんですね。5月の8日に撃たれて死んだんで、毎年その前後にお墓参りを親しい人とやっています。でもう三十三回忌だから、お寺で言えば、法事をしない、これでお終いということになるんですけれども、来年どうしようかってことで、まあみんなも60台のおじいさんになっておりますけれども、元気なうちは集まれる人は集まろうということで、来年も再来年もやることになっています。私も出来ればなるべくそこに付き合いと思っています。年を取ったら昔の亡くなった人のことを思い出して、それをテコにしてアメリカや考える、そういうやりかたがいいんじゃないかなと思っています。これからもなるべくなら、ちょっと煙たいというか、なんかこの会に集まる人は純粋な感じがして、私は、雑な人間ですから、ちょっと気後れするんですよ。まあ元気を出していきたいと思っております。どうかよろしくお願いいたします。


浅輪雅夫

 埼玉県新座市から来ました浅輪と申します。ここ数年来考えていますのは、忘れないということなんですけれども、例えば、今日6月15日を忘れない、私にとって6月15日というのは49年前、樺さんは死んで私は生き延びたという、そういう日として忘れないようにしております。ただ、最近忘れないということの中に、樺さんが死んだのは一つの負い目なんだなと考えるようになっています。 負い目ということでもう一つ最近考えておりますのは、確かわだつみの声の中にあったと思うんでが、野外演習で学徒兵が畑の中を通っていたときに子供たちとすれ違ったと、その子供たちに敬礼されたと、その子どもたちを見て、ああこの子たちのために戦争に行くんだと、その学徒兵は考えて、その学徒兵は一つの納得を得たというような文章だったと思います。私自身子供だった頃に、家の前に線路がありまして、そこを軍用列車で兵隊達が通りすぎるときに、土手の上からバンザイをした、で、何人かの兵隊が手を振ってくれた、そういうことをちょっと思い出したものですから、私はあの兵士達を戦地に送り出した人間なんだということを、中年をすぎてからですけれども考えて、それも一つの最近の負い目という風に感じられることになっています。

 この二つの負い目というのは、私の今の気持ちの中ではほぼ重なっておりまして、だんだん重くなるように感じています。で、これをだんだん重くなるように感じるように、そういうふうに生きていく方がいいなということを考えています。そういう気持ちでまた来年もこの会には是非出たいと思っています。


小泉照子

 初めて参加いたします、渋谷区の小泉照子と申します。この会に本多さんがいらっしゃるということを友人から聞きまして、初めて参加させて頂きました。私の地域でも去年から九条の会というのができまして10人ちょっとなんですけれども憲法一条から読んで、勉強会を月に2回しております。だいたい中高年が多いんですけれどもその中で、一人の女性の方がここにいるとなんでも言いたいことが言えるからいいと仰って下さって、私も本当にその通りだと思って、でも、どこでも言いたいことがいえる世の中になればと思って続けております。


椎野和枝

 椎野和枝と申します。私はずっと東京の人間ではなくて、関西が元々は出身地なんですけれども、夫の転勤に伴って、東京、それから広島、そして今また神奈川に住んで居ります。従って、どこでどういう平和運動をしたらいいのかとか、そう言うことは、その都度ですね、そこの所に根付いた所で、仲間と仲良くなるというのが私の手法でして、広島に居りましたときには、広島女性史研究会というのに、夫もちょっと激しい仕事だったもんですから、手術とか色々あったんですけれども、広島にいる間に広島の人と仲良くしたいという一念で女性史の会に入りまして、今もその人たちと繋がっています。その後神奈川に来まして、また皆さんと会えるような機会を作るのですけれども、去年、こちらで報告したことの続きを申し上げたいと思います。

 去年はですね、私ここで、九条の会で亡くなった小田実さんがベルリンにいらっしゃるときに、玄順恵さんという方と結婚なさって、そしてベルリンでの生活があるときに、日本の戦後の市民の意識と、それからドイツの市民の意識が非常に似通ったところであると、そういう所から市民同士が、平和な活動を交流して続けようということを早くもその時に小田さんが、ドイツの市民との交流会を立ち上げられまして、去年がそれの20年の交流会の記念の年でした。小田さんがいらっしゃらないので、小田さん亡き後、むこうの、関西の市民の意見30の中で16人ほどがベルリンの方に市民の招待で行こうということで、交流の会がありまして、私も元関西と言うこともございまして、その一員にひょこっと入れて頂いて、去年、その小田さんのグループの中に合流して行きました。向こうに行きましてビックリしましたのは、幕張であった世界の九条の会に、向こうで、向こうの市民の人たちに「私は幕張に行ってきました」というような市民にも出会いまして、感激したことを去年言ったかと思います。

 そして今年、その続きをちょっと報告しておきたいと思うんですが、ベルリンの、ドイツの市民、本当にこういう雰囲気の方たちなんですね。本当に、質的にどうしてこんなに同じだろうと、解けあう感情が、その市民の会、何回かした中でも感じました。その中の一つに向こうが、ドイツでは徴兵制度がすでにありまして、もちろんこちらの皆さんご存知のことだとは思いますが、青年達は徴兵の責務を果たさなければならないんですけれど、拒否するということも出来るわけですから、その拒否をする青年の中で、日本にも来て、いろんな福祉の施設で働いている青年がいる、それを向こうの、ベルリンのNPOの人たちと、また日本のNPO人たちが受け皿になって、早くから交流をやっているということを、私は向こうに行って、初めて知りまして、ああそうか、日本でもそういう受け入れをしている人たちが、どこにいるんだろうと思いまして、調べましたら、東京では都内にはありませんでしたね。町田市に一つ、それから北海道の人たちでずいぶん受け入れていらっしゃいます。それから今年埼玉にも、向こうの青年達を世話している、義兄のオイゲンさんという教授なんですけれども、その人が必ず一遍は日本に来て、こちらで働いている青年達に、また広島に一緒に行って、講義をしたりということを一年に一回はなさっています。それですから、私たちは小田さんのグループに行きましたことをきっかけに、そういう受け皿をなさっているこちらの市民の方を知りまして、オイゲンさんがまた3月に日本にいらっしゃる時にも、私もまた関西の芦屋の方の「喜楽苑」(この漢字でいい?)という特養ホームで働いているドイツの青年達とのミーティングにも関わりましたので、なんか余計に色々なことを知らないと、私たち一生懸命やっているつもりでも知らないことが多くあるんじゃないかと思っています。それが大きな報告としてございます。ちょっとお待ち下さい・・・。もう一つ言いたいことがあるんですけれどもちょっと失礼いたします。


塚本輝子

 塚本輝子といいます。昨年は、参加できなかったんですけれど、できるだけこの会に、空いていたら参加したいなと思いながら、一昨年、本多さんとか鶴見さんのお話の中で非常に勇気づけられたことがありまして、そのことをきっかけにして「アリの兵隊」の映画会をやりましたりとか、それから自分たちの機関紙に、本多さん、鶴見さんのことをちょっと書かして頂きました。それから私「山波の会」(この漢字でいい?)にずっと若い時から居りまして、山波の会とこの声なき声の会も非常に、60年安保とは非常に繋がっておりまして、そのころからお聞きしていたんですね、それでその関係のみなさんとか、声なき声の会のみなさんとお会いするのを非常に楽しみにしていた時期がありまして、今では、空いてたら参加するという気持ちだったんです。で、丁度50年ですか、この山波の会も、ずっと60年安保の時期から考えてもそうなんですが、今年25回目、2年に一回の全国集会を持っていましてね、それが丁度今年26回目ですか、それが5月に終わったばかりなんですね。創始者の、この会にも関わりがあるかと思いますが、白鳥郁夫(この漢字でいい?)さん、亡くなってしまった白鳥郁夫さんを偲びながら、そういう会を持ったということを報告させて頂きたいと思います。

 それから今日はたまたま中国からの帰国の人たちで、その人たちのために作った医療ネットワークがあるんですけれども、週に一遍、そこの事業の一つで、ディサービスがあるんですが、そこに週に一遍、行っているんですね。そこの方が、施設長が中国人の方なんですね、その人が一回り若いんですけれども、今日は六・一五、声なき声の会の六・一五があるのでこれから行くんだというお話をしてきたんですね、それだけがちょっとここに来るのには、いいあれだったかなと思っているんですけれども、樺さんのこと、新安保条約批准のこととかをお話ししまして、中国の人には、結構興味があることだと思うんで、気にして聞いてくれたんですが、10分位しかお話しできなかったんで、そんなことをやっておりまして、今日はどんな方がいらっしゃるのかなと思って楽しみにして参りました。


椎野和枝

 すいません、ちょっと途中・・・、一言だけ申し上げたいのは「思想の科学」のシンポジウムの時に、私の話しを聞いて下さった方はご存知なんですけれども、私は去年ですね、ドイツに行くときにちょっと仕掛けをしておいて、地元の市民館で「もっと身近に憲法を」という講演会を開きました。で、この講演会の記録集を今年の3月にこういうふうに作りました。講演会は、教育委員会の予算で、右とか左とかがはっきりしないようなジャーナリストをよんでという仕組みで考えまして、より多くの人に憲法に近づいてもらわないと、死守したいとか、いくら一定の者が思っていても、憲法と言って近づいてくる人、それから守りたい理由をちゃんと言えないと、一人でも増やすことは出来ないんです。で今、国民投票が来年ということが、もうせまってきております。で、もう自民党なんか、最後の最後ですが今国民の前に発議するために、もう水面下、すっごく動いてます。ですからもう時間の問題と言うほど、国民投票の日は近づいていますので、私は、ここにいるみんなが身近な人一人ずつでも、説得する力を持つか持たないかで、やっぱり守りたい党の議員を増やすかどうか、それが鍵になると思っていますし、やっぱり政治に直結して考えていかないと、本当に変えられてしまうのは目前ではないか、という危機感をもっております。終わります。


今野聰

 私は今野聰です。農協に40年間勤めています。たまたま6月15日、昨日今日、長野県の塩尻で・・・(最初、マイクを使ってなかったので、聞き取れず)・・、前回は出たんだけれども、今回は欠席する。どうしてこないのか・・、大事なことがあるからだと、宮城県の言葉で大事なこと、「ダイジ」のことを「ダイズ」って言っているんですね。私たちは、それで「ダイジなことがある」ということを「ダイズなことがある」と普通に言っているんです。まあそういうダジャレを言ったんですが、「ああそうか、6月15日は樺さんが亡くなった日だな」と、なるほどな、私たちとほぼ同期の人には、これが一つの共通体験なんだな、話題にしてよかったなあと、だから今度は来られないよと・・。それで思い出したんですが、4月の13日に、都内、新宿で8人ほどが集まって、仙台の大学で遊んでいたメンバーでそういう会合があったんです。私が一番遅く行ったんで・・、その中に高裁の長官が一人いたんですね。最高裁じゃないです、高裁ね。彼はどういう話しをするんだろうと、聞いていましたら、やっぱり60年安保のことをお話しされて、私たち8人の共通項は、60年安保を仙台の学園で闘ったという・・、闘ったんですから、岸さんに向かって闘い、アメリカ帝国主義に向かって闘っていたんですね。それが共通項、最高裁ではないが高等裁判所の長官になってもその日のことを忘れてないという、だから、みんなで話し合い、この場所もそうだと思いますが、話し合いを持つ場所を持つと言うことがすごく大事だということ、そのことはそっくりそのまま、家の中でもそうすればいいんですね、本来ね。それが私がいつも考えていることなんですが、やっぱり、友達の間でもそういうことを話題にすると、日常些事以外に、当時何があって、今どうすべきか、ということを少しは考える、そういうきっかけになるなと、幸いか不幸か、先週、首都圏では最大級の生活協同組合の総代会に出て、ざっと3時間傍聴しました。先ほど針生さんも生協のことお話しされましたが、私がものすごく、なるほどな、そうだろうなと思ったのは、この生活協同組合は、在日朝鮮人の人が戦後すぐ組織した生協で、名前を菊田一夫(キクタカズオ?)さんていうんですね、あの女たらしの菊田一夫(?)さんではありません。もう一人の菊田一夫(?)さんです。ですから、在日朝鮮の人は戦後すぐ生活協同組合を起こして、それがいま百万を越える、ざっと百三十万人くらいの組織になっているわけです。今年の総代会を聞いていると、平和とか反戦とか、文字には書いているんですけれど、総代20人の人の発言の中に全くなかった、これくらい世の中はイデオロギーが脱色している、 イデオロギーが脱色しているという言い方は失礼かも知れませんが、そういうふうになっているんだなあと、圧倒的に家庭の主婦の人が総代なんです。それが時代の雰囲気かなあ、10年前とは全く違っていますね。ですからそう言うことも頭に置きながら、私たちが日常的に話をすると言うことを、私としては大事にしていきたい、そういうふうに思っています。どうもありがとうございました。


  2009.6.15集会 テープ起こし(2)


細田伸昭

 集会の途中なんですが、今日、鶴見さん、お見えになれないそうなんです。それで、鶴見さんのメッセージを持ってきていただいているので、鶴見太郎さんお願いします。


鶴見太郎

 順番を飛ばしていただいて、どうもありがとうございます。杉並からまいりました鶴見太郎と申します。ちょっと今日は、鶴見俊輔が体調が悪くって、こちらに出られ

ませんでしたので、メッセージ預かっております。ここで、読み上げさせて頂きます。

<鶴見俊輔さんのメッセージ>

六月一五日によせて

 日露戦争の終わった一九○五年から、日本人は大国意識に覆われて、満州事変、中日戦争、大東亜戦争へと進みました。戦争に踏みきるが、それでよいかとたずねられることなく、日本人はこれらの戦争に従いました。そして一九四五年八月、二つの原爆、米国に敗北。それでも、ここまでの成りゆきを考えての反抗はなく、さらに一五年が過ぎました。

 一九五九年から六○年の抗議は、戦時の閣僚だった岸信介首相が、米国大統領アイゼンハウアーの日本訪問を受けて新しい安保条約を出発させる、その計画に対するものでした。はじめは学生運動から、後には全国で起こった大衆の抗議です。日露戦争の終わりから五十五年、日米戦争の終わりから十五年、日本人民の記憶がこの抗議にこもっています。人民の記憶はあります。この時の未曾有の規模の抗議は、そのことのしるしです。

 この運動の中で、中学校の絵の先生だった小林トミさんを代表とする「声なき声の会」という、誰でも入れるデモの形が生まれました。今、ここに開かれている集まりは、その流れです。

 このときの資金は、先日亡くなった上坂冬子さんという保守的評論家が、思想の科学新人賞として受けた三万円を私に託して、私が声なき声の会の出発の費用として用いたものです。

 この時、金融機関の課長だった本多立太郎さんは、課長であるので、組合のデモに誘われず、国会周辺を歩いていて、誰でも入れる「声なき声」の列を見て入ってこられ、それが四十九年続いて、今は九十歳を越えて六月一五日に出席されたという一つの事実となりました。

 本多さんには、北海道で中学生だったころ、抗議行動に加わって牢に入った経験があります。お父さんは、自分の決断で入ったのだから、自分で責任を負え、という立場を崩さなかった。この事情は、「父の話」というすばらしい日本語で話された小冊子にあります。本多さんはそういう根をもって、九十年を越えて生きている方です。今集まっているこの会を思うとき、私は、日本国民としての日本人ではなく、世界の中の日本人に、希望をもちます。

                     二〇〇九年六月一五日 鶴見俊輔


細田伸昭

 では、戻ってお願いします。


鈴木弘之

 都内から来ました鈴木と申します。嬉しい話、喜ばしい話をしたいのですが、私の話は、悲しい、怒りに苦しむようなお話を申し上げて、そういう問題が片づいたときに初めて、楽しい、あるいは嬉しい話が出てくるものと考えています。私が考えておりますのは日本人の特徴、短所、長所はなんだろうかということです。みなさん色々な長所、短所を思いつかれることと思いますけれども、私が考えておりますのは、昔はあんまり言わなかったんですけれども、最近、学校に行っている子どもたちも、それから勤めている人たちもよく口にする「仲良しクラブ」ということなんです。「仲良しクラブ」というのは仲の良い人が集まりましょう。で、お互い、理解し合いましょうって、それ以外の外人とかよそ者とか・・、関係ない人たちの事はあまり考えなくなってきているのではないか。私がそれを一番考えますのは、つぎにお話する、お話ししたいシナリオのようなものを考えてきましてので、聞いて頂きたいと思います。昨年の春、私、最高裁の判事をされていた方のお孫さんが「判事の家」という本を書いて、松川事件がどういう事件であったのか、ということを書いています。お読みになった方もいらっしゃると思いますが、一口で言いますと、裁判官のお孫さんとして知りうる情報がいくつかあって、それを中心に調査を重ねて、ルポの形でまとめたもので、結論としては、おそらく間違いなく松川事件というのは、アメリカ軍と日本の警察と、それから日本の特務機関が、鉄道を夜中に犬釘を外してひっくり返して、その責任を関係のなかった労働組合、あるいは共産党の仕業にしたものだろう、状況的な判断ですけれども、かなり説得力のある本だなと思います。三鷹事件とか下山事件もたぶん同じ様な経緯があったんではないか、ところが当時の人たちはそういう事情を知る縁もないので、警察が労働組合員などを捕まえて、死刑判決を出させるようなことをやっていても、ああそういうことをしたのかなあと、まあ要するに権力に騙されたという状況が、昭和24年当時あったんですけれども、私は現代でも、今年でもそういう問題があるということをお話したいと思います。

 私の話が長くなるといけませんので、司会の方、いつでも「弁士中止」と仰っていただければ終わりますので・・・。私のお話しするシナリオは、1995年と2000年の出来事です。このシナリオに登場するのは沖縄駐留アメリカ兵、それからその周囲にいるアメリカ軍当局、それから沖縄の小学生の少女、それから沖縄住民、そして法務省、それから外務省の役人、そして背後におりますアメリカ国民と日本国民であります。前段でご説明しておかなければいけないのですが、私はサラリーマンでして、普通の勤め人といいますか、ただちょっとめずらしい仕事なのは、日本やアメリカの法律に関わる仕事をしておりまして、その関係から先ほど立花かがり(たちばなかがり。これでいい?)さんがある種の情報をつかまえる立場にあるのと同様に、私も、アメリカの判例法、特に連邦裁判所の判例とはもう20年くらい付き合ってまして、そういうバックグランドがあったから、私が気が付いたことが、もしそういう仕事の関係が全くなければ、やっぱり裁判員法というのは、司法の改革なんだろうかと間違って解釈をする可能性があったと思います。ご存知のように1995年に米兵による強姦事件がおこりまして、本人は犯罪を犯しているということを認めているんですけれども、日本の裁判所で裁判を受けたくないということを言いまして、アメリカ軍がそれでも日本側に引き渡すということをしたかというと、その米兵と同じ立場をとった。その理由は何かといいますと、イングランドの裁判に関する900年の歴史がありますけれども、アメリカは独立以後、その大半を引き継いで、裁判制度を作っていまして、これは一口で言いますと、日本のように文書にして法律を公布するのではなくて、慣習を裁判所が判決の形で出すことによって、判例法というものが社会の規範になる、それが特徴です。従って非常にわかりにくい。何故かと言いますと日本のように法律が第何条というような形で現れておりませんで、個別の裁判の中からそういう要素を拾い出して、その要素が次の裁判に影響するというスタイルだからですね。アメリカ軍では何故、米兵の意見に合わせて日本側に引き渡せないと言ったのか、これはもしも米兵を引き渡すとアメリカにいる家族達に反戦運動が広がる恐れがあると見たからだと思います。といいいますのは、そのように裁判制度がしっかりしていない所で、自分たちの息子が従軍して、不当な裁判を受けるという状況を許せないという声が広がることを懸念しただろうと。で、日本政府は何を考えたか、解決策というのは、私の考え方からしますと、軍隊を置いて人殺しの訓練をすること自身がそういう犯罪を引き起こすという考え方なんですけれども、日本政府は基地を維持するために、そのためには反戦運動は押さえなくてはいかん、押さえるためには、スムースに身柄引き渡しが行われないと、世論が沸騰して困る。従って法的に何か手だてはないか、で、外務省の役人がアメリカ当局と交渉したはずですけれども、その時にアメリカ側から、先ほどお話しした裁判制度の話を聞いて、それを取り入れたらどうか、あるいはアメリカ軍の方から逆にアメリカの真似をして制度を変えることができないかというような話が、たぶん進んだだろうと。それが外務省から法務省に話が引き継がれ、法務省は最高裁にかなり圧力をかけることが出来ますから、最高裁も含めた、カクニ(?)と最高裁とグルになって話が進み、そして・・はい分かりました。この裁判員法を作るというふうになったのだろうと思います。時間ですので終わります。


小形健治

 神奈川県の相模原市から来ました小形と申します。去年も一応参加いたしました。最近考えていることをちょっとだけ言いますと、平和の問題を語るときに、話し合いで物事を解決する社会だろうなと思うんです。話し合いというと民主主義ということになりますけれど、はるか昔のギリシャ時代だったら、非常に民主的な社会だったと言われています。しかしそれは奴隷制によって成り立っていましたので、僕が考えるに奴隷制を真似てもしょうがないわけで、民主主義は参考になるかも知れません、ギリシャ時代の。

 日本のことを考えたときに、少し前「寄り合い」についての本を読んだことがあって、「寄り合い」というのは話し合いによって物事を解決しよう、自分たちの周りにある問題を解決しようと、そういう考え方で成り立っていると思います。時には非常に長い話し合いになって、二日とか三日連続で話し合ってですね・・、というような記述を読んだことがあります。徹底的な話し合いをする。で、そのくらい長く話していると、寝ている人は出てくるし、家に帰る人も出てくるしということもあるんですが、しかし話し合いはまだ続いていると、で、そうやって話し合った結論については、このくらい話し合ったからみんな守ろうという感じ。で、それはやっぱり、どんな社会っていうか・・、話し合いでものごとを解決しようという村が多かったと思いますけれど、そういう形だったと思うんですね。村にはまずい面としては村八分というのがあって、話し合いでいうことを最終的に聞かない人はその集団の外にいなさいということになってしまいますけど・・。僕からいうと、村八分は真似をする必要はないけれど、「寄り合い」の非常によく話し合うというところは真似てもいいし、それを上手く言えば、生かせなかった面があるのかなあと思っています。だから平和な社会を考えた場合に、そういう話し合いっていうのは重要な、話し合う場を持つということは非常に重要な意味を持っているんだなと。今、心に浮かぶんですけど・・、それがおそらくは非常に平和な社会に繋がっていくだろうし、樺さんやトミさんの気持ちにかなうのかなと思います。以上です。


岩垂弘

 岩垂と申します。毎年、参加させて頂いています。去年も申し上げたんですが、小林さんのことですね、これはすでにみなさんご存知のように、小林トミさんの提唱によって、この会が出来てきたんですが、そのことについてのご発言もありました。私の申し上げたいのは、トミさんは亡くなられたんですが、トミさんを影で支えられていた、あるいは時には一緒に行動されていたお姉さんのヤスさんという方がまだご健在です。一緒に住んでいたお家に、いまでも住んで居られます、柏のですね。それでだいぶお年を召したもんですから、度々ですね、健康を害されることがあって、なかなか遠くには出られない、特に夜の会合には出られないということで、この声なき声の会の会合に、いつもも出たい出たいと仰られていながら、今年も出られないようです。先日お電話したら、今年こそ出たいんだけれども、今年も失礼しますというお話でございました。来年50年になるということも非常に意識されていましてですね、来年はなんとしても出たいということを仰って居られます。それで、これは当然のことなんですが、彼女は、この声なき声の会の存在をですね、しかも継続的に活動して作った一つの生き甲斐にされてましてですね、大変気にされたり、あるいは期待をされております。ご兄弟三人で住んでたんですけれど、お兄様と妹さんが亡くなられて、彼女いま一人なんですね、知り合いも亡くなりですね、お一人で住んでいるために、ちょっと何と言うんですか、大変寂しい思いをされているようなんで、みなさんぜひ、何か機会がありましたらお声をかけて・・、あげたいと思います。

 あと一つ私の感想を申し上げますと「これまでの50年 、これからの50年」ということですが、私は「6.15」から来年丁度50年ですね。実はその日本の平和運動を50年間ずっと見続けてきたわけですね、まあ仕事でやってきたわけですが、新聞記者という、でも新聞記者をやめてからも、その方面に関心があるもんですから、反戦・平和運動の流れを見てきたというか、関心を持って見続けてきたということになりますね。一言で言うと今非常に危機感を持っています。大変な危機感ですね、みなさんどうでしょうね、私は大変な危機感ですね。60年安保の頃と、50年後の今と状況はすっかり変わっていると思うんですね。事態はもっと悪くなっている、反戦・平和という観点から。だけどそれに対して、それに声を上げていく人たちの運動といいますか、勢いは、当時と問題にならないくらい低調です。言うなれば戦争を目指すと言っては失礼ですが、そういう戦争好きな人たちは、どんどん大きくなり、どんどん勢いを増していながら、それに対して抗議する一般の市民の運動はですね、非常に衰退してきたということだと思いますね。今の状況見て下さい。北朝鮮の核実験を口実にですね、日本もここでいよいよ軍備の拡大・増強が行われようとしている訳ですね。大変な事態だと思うんですね。そればかりか憲法「改正」が、いよいよ日程に上がってきて、3年以内に国民投票がもしかすると行われるかもしれないという所まで来ています。それから、みなさんどなたも言わないので言いますけれど、前の航空幕僚長が「日本は侵略国家ではなかった」と公然と言って、しかもそのことが持てはやされていますね。そういうふうに言うことを良しとする声が強まっている。それから北朝鮮の核問題にしても、その根底にあるのはナショナリズムですよね。北朝鮮なにするものぞということで、向こうが核ミサイルを作るなら、こっちも核武装しようよ、ということが政治家ばかりでなく一般市民の中でも強まっている、こういう事態なんですね。これは大変な事態だと思いますね。

 私は反戦・平和運動は本当の正念場をむかえているんじゃないかという気がします。これから平和憲法を守るのは命がけでないと守れないんじゃないですかね。そういう所に来ていると思います。それに引き替え、私は是非言いたいのは、長年見てきて、ある一方では非常に一人ひとりの地道な運動というのは進んでいるんですよね、いろいろな地域でも特色のある・・、一人ひとりはものすごく頑張っている。でもみんなバラバラなんですよね。この50年、分散と、何と言うんですかね、分散と分化の歴史ですよね。大きくなるよりは分散になって、最後は一人一党になってしまって・・、これでは力にならない。やはりここでもう一度大きな結集を、ある時点でしないとだめだと思うんですよね。だから、それぞれがそれぞれの実質的な、個性的なこういう動きを大事にしながらですね、何かの時に、一つにまとまって、共通の目標にむかって声を出すということでないと、大きな世論にならないのではないかなと思います。そういう意味で、そういう時期に来ているのではないかという気がしております。どうも長くなりました。失礼しました。


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2009年09月29日

「声なき声のたより」99号

トミさん、ありがとう

鶴見俊輔

 元日に、新年のごあいさつと思って、電話をかけました。お姉さんのやすさんの答えに、
はりつめた空気を感じました。次の日、トミさんがなくなられたしらせがありました。
 四十三年前、トミさんがひとりで歩きはじめたところから、ひとつのことがおこりまし
た。戦争はいやだという誰でもの心にある声がひとつのともしびとなり、それは他の誰か
の心にまたひとつのともしびをつくる、そういう動きです。
 分類の都合で、それは市民運動と呼ばれます。しかし、トミさんはこれを市民運動と思
ってはじめたのではありません。
 トミさんは、今まで一度もデモに出たことのない絵の先生としてはじめた。トミさんが
あってこの運動はあった。
 一度、トミさんがその本領を発揮したことがありました。声なき声の中から、死を決し
て権力と対決しようという声があがって、声なき声の大部分がその声についていったとき
です。トミさんは、自分はひとりになっても、普通にできることを守るといって、さっさ
と家にかえってしまいました。そしてその時をこえて、もとの運動の形をつづけました。
 戦争はいやだという、普通の人が誰でも感じていること、それを誰にでもできる形であ
らわしつづける。それがトミさんの呼びかけです。 四十三年間。トミさん、ありがとう。
二〇〇三年一月六日


それが小林トミである

岩垂 弘

 小林さん。まさか新年早々、あなたに弔辞を捧げることになるなんて、夢にも思っても
みませんでした。私の戸惑い、言いようのない深い悲しみ、癒しがたい喪失感と寂しさを
お察しください。 
 あなたは、いつもその大柄で頑丈そうな身体に力をみなぎらせていました。いかにも健
康そうで、病気とは無縁、という印象でした。「いつも朗らかで元気」というのが、あな
たにぴったりの言葉でした。
 そのあなたがいつになく白っぽいお顔をされているので、気になりました。昨年九月十
二日、東京・神田の日本教育会館でお目にかかった時です。「ベトナムに平和を!市民連
合(べ平連)」の事務局長だった吉川勇一氏らの呼びかけで、新たな反戦市民運動を始め
るための相談会があり、それにあなたも出てこられました。「顔が白っぽいですよ」と言
うと、あなたは「そう」と笑って、あまり気にもされていないようでした。
 その直後、あなたは急きょ入院されました。しかし、私は、あなたが持ち前の頑強さを
発揮して、早期に健康を回復されるだろうと、堅く信じて疑いませんでした。お見舞いに
うかがった時もお元気で、暮れには退院されました。ですから、悲報に接した時、とても
信じられませんでした。七十二歳。それはないよ、と神様に抗議したい気持ちでした。
 あなたの生涯を貫いていたもの。それは、一言でいえば「戦争はいやだ」という強い意
思でした。それは、少女時代の体験に根ざすものと思われます。日本が太平洋戦争を始め
た時、あなたは十一歳で、旧制都立高女に進んでももはや授業はなく、勤労動員の日々で
した。浦安に住んでいましたから、死者十万人といわれる一九四五年三月十日の東京大空
襲の惨害を目撃しています。
 ですから、六〇年に日米安保条約が改定された時、あなたは「これは戦争につながりか
ねない」と危機感を抱いた。安保反対闘争が始まると、あなたは友人とたった二人で「誰
デモ入れる声なき声の会」と書いた横幕を掲げて国会周辺を歩いた。労組員でなかったか
ら、労組のデモ隊に加わるわけにもゆかず、自ら一般市民が気軽に入れるデモの隊列を編
み出したのでした。安保改定を推進した岸首相が「私は『声なき声』にも耳を傾けなけれ
ばならないと思う。いまあるのは『声ある声』だけだ」と述べ、「声なき声」、すなわち
国民世論は政府を支持しているのだ、と強弁したことに対する小林さんの意義申し立てで
した。
 これが、反戦市民グループ「声なき声の会」の誕生でした。以来、四十二年余り。あな
たはずっとその代表を務め、会報「声なき声のたより」を刊行し続けたり、毎年六月十五
日には、安保闘争の中で犠牲となった東大生樺美智子さんの死を悼んで、仲間とともに国
会通用門に花を供えてきました。
 あなたの活動は三つの点で傑出していた、と思います。まず、その活動が他から命令さ
れたり指示されたものでなく、あくまでも自発性に基づいたものであった点。第二は口舌
の徒でなく、必ず行動を伴ったものであった点、第三は長く継続する活動であった点です。
これらの点はそれまでの大衆運動に欠けていたもので、あなたは日本の大衆運動に新しい
地平を切り開いたのです。その根底には、人間に対する無限の信頼がありました。評論家
の鶴見俊輔氏は「小林さんは日常生活の一部として反戦運動を続けてきた。つまり、普通
の人でも反戦運動ができることを実証したと言えます」と話しておられます。あなたの足
跡は、日本の大衆運動史に燦然として光輝いています。
 そしてまた、私は、戦後最大の大衆運動といわれる六〇年安保闘争は二人の人物を生ん
だと考えています。一人は樺美智子さん。もう一人は、その樺さんを日本人として忘れ去
ってはいけないとして終生顕彰し続けた小林トミさん、あなたです。時代が、運動が、傑
出した人物をつくり出す。それが歴史なのだ。あなたとの長いおつきあいの中で、私はそ
う思うようになりました。
 米国によるイラク攻撃が始まろうとしています。世界はまた戦争に突入しようとしてい
ます。日本もこれに参戦しようとしています。風雨強かるべし。今こそ、小林さんがかつ
て始められたような反戦平和の市民運動が切に求められています。なのに、あなたはもう
いない。まことに残念でなりません。が、あなたと私たちの絆がこれで永遠に切れてしま
ったわけではありません。
 文芸評論家の勝本清一郎氏は、同氏が編集した岩波書店版『透谷全集』の第一巻付録に
次のように書いています。
  あらしが幾度も過ぎた。今後もまた過ぎるであろう。
  あらしの合間に天空の深みに見覚えのある一點星がいつも光っている。
  それが透谷である。 
 透谷とは、明治時代の代表的な思想家であり詩人であった北村透谷です。「それが透谷
である」。それを、私は「それが小林トミである」と読み替えたい。あなたは、これから
も天空の深みに輝く一點星のような存在であり続けるでしょう。そして、あの人なつっこ
い童女のような笑みを満面に浮かべ、ひそやかに私たちに語りかけてくださるでしょう。
私たちが道に迷って右往左往するようであれば、どうか私たちが向かうべき方向を指し示
してください。
二〇〇三年一月七日  
元朝日新聞記者、平和・協同ジャーナリスト基金代表運営委員 
                                           


トミさんのこと

高畠通敏

「その人はいい人?」と訊ねるのがトミさんの口癖だった。声なき声のような運動に、無
償の協力を惜しまない善意の人か、それとも自分の利害や都合でしか動かない人か。それ
がトミさんの人間哲学だった。
 思想の科学研究会に二〇代の会員がたくさんいた頃、面識こそあったが、私はトミさん
とほとんど話をした記憶がない。六〇年安保でトミさんがはじめて声なき声のプラカード
を掲げた日にも、私への誘いはなかった。私は、研究会の事務局にいて、声明の原稿や評
議員会の記録づくりに追われていた。そして竹内好さんや鶴見俊輔さんが、岸政権に抗議
して大学を辞めてゆくのに強い衝撃を受けていた。私もできたら抗議辞職したい。しかし、
東大助手は、前年に任期満了でくびになっており、辞めるところもない。だが、鶴見さん
は、今後は、トミさんたちの声なき声の会を拠点にして、市民運動を続けると談話を出し
ている。もし、声なき声の会が瓦解などしたら、鶴見さんは赤恥をかくことになる。
 私にできることは、声なき声の会を支えること、私はそう結論した。私は、トミさんに
近づき、「声なき声のたより」を発行して運動を組織化し、その事務局を引き受けると宣
言した。それが、その後二〇年の間、声なき声の会の事務局長として、トミさんとつきあ
うことになった始まりだった。
 その間、私は、研究会の事務局長にさせられたり、アメリカやメキシコに長期留学した
り、自分の都合で何回も、実質的に声なき声の事務局長の仕事をさぼった。そのたびに、
私は、トミさんの内で「いい人」から「悪い人」へと評価がえさせられたのだと思う。だ
が、私が声なき声の仕事に復帰するたびに、トミさんはあっけらかんとした声で、「高畠
さんはやっぱりいい人だった」と宣言してくれた。それには、へきえきする思いもあった。
しかし、人間や人生をこのように単純化して割り切ることから、トミさんが声なき声を生
涯背負うというエネルギーも生まれたのだと思う。


途方にくれている

本多立太郎

 私の六〇年安保の記憶は日本橋の会社の机で見た小さな新聞記事から始まる。「一米上
院議員曰く、今回の日米安保改定が成らなかったら、アメリカの防衛線はカリフォルニア
に後退するだろう」 おいおい、アメリカの防衛線が米西海岸にあってどうして不都合な
のか。こりゃ戦時中の「満蒙は日本の生命線」と同じじゃないか。こうしておられん。頭
より手足が先に動くのは生来のクセだから早速日比谷へ行った。日比谷は煮えくり返して
いた。赤旗の後には一寸まずい(当時ある金融機関の課長、四六歳)、うろうろしてると
片隅に小さな旗と二〇人ほどの貧相な集団が来たから一寸頭を下げてもぐりこんだ。それ
がやみつきで毎夜、わっせわっせとなった。当時は麻雀族だから「麻雀よりもっといい遊
びを覚えたんじゃないか」と社内に怪しからん噂が立ったほど毎夜通った。右翼と戦って
上衣にカギ裂き作ったり、ズボンを泥だらけにして帰ったから、細君は亭主何やってんだ
と思ったろうが、双方とも何とも言わない。そういう躾は出来ている。そんな動機だから
もぐりこむ先は「声なき声」とは限らない。誰とでも構わず腕を組み胸を張った。歩道の
野次馬からどんどん飛び込んでくる。仕舞いに国会議事堂の鉄柵の向こうに並んでるポリ
公たちに、「オーイこっちへ来いよ。いい気持ちだぞ、来たいんだろう」と手を振ったり
した。あの頃は、本心連中もそう思ってたんじゃないかな。
 それから二十年、一九八〇年六月十五日、始めて小林トミさん、鶴見俊輔さん外のみな
さんに会った。何だか中学のクラス会か、町内の花見会みたいに感じたのを覚えている。
 あの頃は市ヶ谷の日本棋院近くのYWCAだったナ。安保成立の瞬間を市ヶ谷台上で聞
いて口惜し涙を呑みこんだのを思い出したりした。上方に棲みついたので毎年とはいかな
かったが、何とか口実を見付けて上京した。
 だんだん若い人が増えきて、あの頃のわっせわっせ組は数えるほどになった。でも、終
始全く変わらない人が居た。八〇年からまた二十余年も経ったのに、少しも年をとったと
いう気配がない。池袋の豊島区勤労福祉会館の前、硝子扉の向こうにニコニコと手を振っ
ている彼女の笑顔に、せかせか歩みよる私はいつもホッとした。ああ来ちゃったと思った。
トミさんの笑顔に吸い寄せられるように上方から延々新幹線で(八〇年には、東海道線で
六回のりかえて十一時間半かけて出席して拍手されたりした)やってくるのだ。そのとき、
私は正直この世の女神を見たと思った。何を調子のいいことを、と思うだろうが、これは
決して誇張でも世辞でもない。
 この時代、ますます金と力の世の中になってきたし、またなってゆくだろうが、中に全
くそれと無縁な無私な人が居て、年に一度、七夕さんのように逢瀬の刻が来る。老耄の身
となり果てても、俺には帰るところがあるんだと固く深く思いこんで来た。
 その人がもう居ない。どうすればいいんだ。



トミさんとの出会い

望月寿美子

 わたしの市民運動の原点は、一九五五年の砂川基地反対です。そしてそれから五年、当
時商店の主婦だったわたしも、五月中旬ころから婦人団体や教職員組合の行動に加わって、
請願デモをしていました。 そんななかで、「声なき声」や小林トミさんと出会ったのは、
六月一九日でした。この日、「声なき声の会」の始めての集会が青山の草月会館で開かれ
たのです。
 ここ数年はわたしが足が不自由になったものですから、トミさんが皆さんとわたしの家
に来てくれました。わたしの家から帰るトミさんの後姿が今でも眼に焼きついています。
(談)文責・柳下


トミさんの絵

横山貞子

 有楽町駅に近い画廊で小林トミさんの個展がひらかれたのは、一九六三年の夏だっ
たろうか。その時の作品のひとつが、今の住まいに越してきてからずっと、玄関にか
けてある。横一メートル、縦が七〇センチほどの、かなり大きなものだ。
 渦巻きが三つ並ぶ。抽象画なのだが、渦には動きが感じられる。内側がベージュ色、
中間が白、外側が木蓮の花に似た赤紫。画面の下から上へ、渦を突き上げるような縦
の太い線がある。地面から生えてきたゼンマイのようにも見える。背景はところどこ
ろに空色の縦線のまじる、あたたかい白が使ってある。
 この個展では、展示された二十点ほどの作品のすべてが、この渦のようなモチーフ
だった。画面を縦に使ったもの、いくつもの渦が並んだもの。ひとつだけのもの。会
場に取材にきた新聞記者が、「どうしてこのかたちだけなんですかね?」と言ってい
たのを思いだす。
 今、ふりかえってみると、あれは一九六〇年六月、「声なき声」のデモが発生する
のに立ち会ったトミさんの心象を、かたちで表現したものだったと思える。トミさん
の心の深いところから立ちあがってくるかたちだったのではないか。それは、声なき
声の会をずっとやってきた持続力に通じるものだった。
 長いあいだ親しんできた「声なき声のたより」の表紙絵は、油絵の作品とちがって、
単純な太い線から成る。『たより』四十三号(一九六七年一一月発行)は、二十八ペ
ージの分厚いもので、杉山竜丸さんが「ふたつの悲しみ」といういい文章を書いてい
るので、印象の強かった号だ。この号の表紙は、瓦屋根と庭に面した廊下のある家の
絵だった。雨の中のデモを題材にした、大小の傘の中に「声なき声」「の」「たより」
と誌名を入れた表紙(三十四号、一九六五年六月発行)もなつかしい。


持続する魂魄

鈴木 正

 60年安保闘争のころ私は愛知県の中学の教師をしていました。名古屋大学の小さな研究
会のあと、テレビ塔広場で行われる夕方の集会に出る学生や院生らが準備していたので、
いっしょにでかけるために手伝ったら私のプラカードの作り方が堂に入っているとM教授
がほめてくれたことを思い出す。そのころ貴女(あなた)が始められた「声なき声」は新鮮
でした。私のような田舎教師には動員されて日当の出るデモでなく、自由な意思を表わす
チャンスがない。それを創造した貴女たちの発想と行動に遠くから尊敬の念を抱いて、人
知れず声援を送っていました。
 貴女に直接お目にかかったのは「思想の科学」の集りでした。中学の絵の先生だと聞いて
驚きと親しみを余計に感じました。いつだったか、6・15へ誘っていただいたのに上京
できなくて残念でした。去年、共通の友人である堀孝彦さんが参加して、貴女や鶴見さん
に逢えてよかったと便りをくれました。
 数年前『声なき声のたより』に何か書くよう、お声をかけてくださいました。私にとっ
て「声なき声」のイメージは無名な庶民と地続きの市民ですので、少年時代に母と店番を
していた思い出と重ねて、この集団への期待と、その小さな光源が放つ希望について書き
ました(『声なき声のたより』95号、二〇〇〇年一月一五日)。
 二〇〇〇年の「思想の科学」でお会いしたときの記憶がもっとも鮮明です。あの年は内
々で会のことを議論しようということで大野力・高畠通敏両氏が話したあとの討論のなか
で『転向再論』に私が書いた「あとがき」の正確ではないが、予測は事実上そうなるだろ
うし、それでいいという意のカッコ内の言葉をめぐって激しい感情のこもった批判があり、
私は沈黙していました。貴女はコンパの席で、気のきいた言葉で切断するかのようにたし
なめられたことが印象にのこっています。鶴見さんがいつだったか貴女のことを「思想の
科学」のなかでユニークな存在感のある人だといっていました。
 アメリカのイラクへの先制攻撃=侵略が勝手放題におこなわれている今、少年時代に耳
にタコができるほど聞いた「鬼畜米英」がよみがえってきました。そんな時代だからこそ
貴女の遺志も復活して生き生きと伝わってきます。私は歴史のなかの人間の抵抗は賽(さい)
の河原の子供の石積みのように、くずれてもくずれても積むものだと、アソシエーション
問題をめぐる集会で話したことがあります。ギュンター・グラス(ドイツのノーベル賞作
家)がイラク戦争に寄せて書いた「強者の不正」の結びの言葉を引いて「彼岸」に投げます。

 「われわれが山の頂にむかって転がしていった岩塊は、また山の麓(ふもと)に転がり
落ちてしまったのだ。それならわれわれはこの岩塊をまた頂上にむかって押し転がしてい
こうではないか。岩がやっと頂上に達するやいなや、また麓に転がり落ちることになりそ
うだという予感はする。それでもなお、何度でも、決して終わることのない抗議と反対を
繰り返していく」(「朝日新聞」二〇〇三年三月二六日付け夕刊)

 これと「声なき声」の精神とは同質ですよね。小林トミさん!


長い間ごくろうさまでした

渡辺一衛

 昭和三十年代のはじめ、思想の科学のいくつかのサークルに私が出はじめたころ、小林
トミさんがいつもお姉さんのやす子さんと二人で出席しておられたのを懐かしく思い出し
します。その後トミさんは「声なき声の会」の中心メンバーとして四〇年間重責を担って
こられました。ほんとうにごくろうさまでした。
 昨年の六月はじめ、福富節男さんの呼び掛けで渋谷でデモが行われたとき、「声なき声
の会」からも案内が来ました。それに誘われて私も出掛けていったのですが、そこで久し
ぶりに河辺岸三や九十九里から来た金井佳子さんなどにお会いしました。みなトミさんの
呼び掛けで来たということでした。当のトミさんは少しおくれて元気に現れました。小さ
なデモでしたが、昔べ平連が始まったころの月例デモを思い出しました。
 それが今年になって、何万という人達の反戦デモになったのは予想外でもあり、とにか
く嬉しいことでした。もちろん単純に喜ぶわけにもゆかないのですが、もしトミさんがお
元気だったら、その中でいきいきと活動されただろうと思います。ほんとうに予想もしな
い亡くなりかたでした。
 新しくデモに参加した人々の中から、日本でどんな運動が生まれるのか。当分明るさが
みられないブッシュの世界が、どうなってゆくのか。年齢的にいって、私もいつどうなか
分からない状態ではあるのですが、トミさんの分も見続けてゆきたいと思っています。


五分でも百メートルでも

堀 孝彦

 トミさんの便りはすぐに分かる。郵便受けの底の方にあっても、元気のいい字が封筒か
らはみ出すように見えるからである。
 六十年安保で出会い、国会周辺をデモしていたのだが、翌年から福島や名古屋へ赴任し
たため、六・一五の献花も、昨年まではほとんど共にしていない。
 浅沼さん虐殺テロの当夜(一九六〇年十月十二日)、喫茶サニーに集まった一二、三名
が首相官邸までデモった。路上で即製のプラカードを書いている写真のなかに当時婚約中
だった僕たちの姿も写っている(「声なき声の二年間」を記録した『またデモであおう』、
『復刻版 声なき声のたより』第二巻に収録)。
 その翌年四月に福島へ赴任してすぐ、五月の福島県中央メーデーに「市民の皆さん
五分でも百メートルでも歩きましょう」のゼッケンをつけた後ろ姿の妻の写真も同書第五
部の扉「一人ずつのたたかい」に出ている。
 それらのことをよく覚えていてくれたトミさんが、妻の急死に対し、「この二十年以上、
おめにかかる機会にめぐまれなかったが、福島に仲間が元気で活動されているという心の
支えになっていたのに、本当に残念です。人の命のはかなさを感じます」という暖かい弔
文を『たより』七一号(一九八三・六・一五)に寄せてくれていた。それなのに、その二
〇年後にこうして僕の方からトミさんを送る文を書く回り合わせになろうとは。同じ言葉
で返す他ない。
 二一世紀を迎えて再び「またデモであう」必要が格段と増してきた。あの緑の三角小旗
も二代目を作成するという。一日も早くイラク戦争を終わらせ公正な世の中をつくること
以外に、トミさんに報いる手だては、やはりないのだろうか。
(二〇〇三・四・二)

トミさんが仲立ちしてくれた

伊藤幹彦

 昨年の春『雑記通信』なる個人紙に、名古屋大空襲の記を載せたところ小林トミさんか
ら「私も三月十日の東京大空襲を浦安で経験しました」という便りを受け、次号にそのこ
とと併せて「有事法制反対」の先導幕を中山千夏さんと掲げてデモしている小林トミさん
の写真を紹介した。
 すると追っかけ小林トミさんから『声なき声のたより』に書いてみませんかとのお誘い
があり、書いたのが「思えばあの時はまだ、新幹線は走っていなかった」という書き出し
の一九六〇年六月十五日、国会前のこと。
 その私の雑文に並んで掲載されていたのが、堀孝彦さんの告別講義。一読して、待てよ、
と思った。このお名前にどこかでお目にかかったことがある。そして思い出したのが、
『図書新聞』を始め各紙の書評欄で紹介されていた『英学と堀達之助』の著者ではないか
ということであり、調べてみると孝彦さんは、ペリー来航時の主席通詞であり、日本で最
初の英和辞典編者である堀達之助の曾孫だった。
 この堀孝彦さんの著書を、政治学者の田口富久治さんが、書肆『みすず』の「今年印象
に残った書物」というアンケートに挙げておられるのを知り、私も堀孝彦さんのお仕事に
ついては多少存知あげているということを、半ぱ自慢気に田口富久治さんにお手紙した。  
すると、田口富久治さんから「堀孝彦さんは、私の恩師堀豊彦先生のご子息で、年齢も殆
ど同じで……」友人です、との返信があった。
 そういえぱ、堀孝彦さんのお便りには、「トミさんとは同年齢で、六〇年安保以来の友
人ですが、咋年の六・一五の会合が最期になろうとは……」とあったが、新しくつくられ
た「声なき声の旗」を今年の六・一五集会には持っていってトミさんに見せてあげたい。


今様・晶子

飯岡祐保

 お正月の新聞を珍しくシゲシゲと見ていたら、死亡記事欄に「小林トミ」と載っていた。
世の中に同姓同名の人もいるものだと思ったら、何とご本人。こんなに、驚いたことはな
い。だって、去年の確か秋に宮下公園であって、一緒に渋谷の街をデモしたのに。
 告別式の日は、寒かった。その後私は、具合を悪くして一月以上も本調子になれないで
いる。その間に、図書館から彼女の作品を借り出して、床の中で読書三昧の日を過ごした。
 今はディズニー・ランドで有名で昔の面影をなくした街の神明さまでホッとする後書き
が、『わが町・浦安』にはあるが、その昔のままの神明さまに準えられるのが、小林トミ
さんであるという気がしてくる。
 時流にあわせてカメレオンのように器用に変身することなど、彼女にはありえない。
 六月十五日に毎年、国会に樺美智子さんへ皆と献花をし続けた彼女。
 「声なき声のたより」を出し続けた彼女。
 彼女のおとぎの国は『貝がらの町』で、今はもう、ない。姉様人形や、塗り絵、ぼった
ら焼き、紙芝居、活動写真。お風呂屋さん。
 ディズニー・ランドの何倍も豊かだったそれらは、『貝がらの町』の頁に閉じ込められ
ている。
 「彼女、与謝野晶子に似ていない? 」
 「子どもが沢山いて…」
 そんな話をした。ともかく、そのくらい、たっぷりとした印象があった。
 彼女は作品の中で、沢山の子供を作った。そのどの子にも、実の母親の愛情を注いだ。
 人間が好きで堪らないと、選り好みをしない広く、深い眼差しを感じる。


声なき声でありつづける

阿部拓二

 小林トミさんが亡くなられたのをきっかけに、『声なき声のたより』の復刻版二冊を開
き、小林さんの文章を中心に読み返してみた。それらはどれも、他人に訴えるというより
静かに自分に言い聞かせるような文体で、読んでいてまるで小林さんの肉声を聞くような
感じがした。毎年恒例の六月十五日の集会を進行させるときの、あの優しい自然な口ぶり
が今にも聞こえてきそうだった。このような語り口が「声なき声の会」を四〇年以上にわ
たって持続させてきたのかと、なにか合点がいく思いがした。
 『たより』を読むと、会を解散、あるいは会が消滅するかもしれない時期が幾度かあっ
た。すでに六〇年安保の数年後にその危機があったようだ。八〇年代はじめにもそのこと
がうかがわれる。集会を開いても誰も集まらない、そんな夢をみることがある、と小林さ
んが書いている。でも、小林さんは、死ぬまで続けてきた。
 九〇年前後から追悼文が多くなる。六〇年安保時代からの参加者が次々と他界されてい
ったためだが、小林さんの追悼のことばには、死者を悔やむ気持ちはあっても不思議と未
来への悲愴感はない。
 私は一九九七年六月に初めて参加した。六月十五日の当日朝、神戸から柏市のお宅に電
話して参加の可否を尋ねると、「是非出席して下さい」と明るい声で言っていただいたの
を今も思い出す。それから去年まで四回出席した。
 毎回、小林さんが買ってこられた抱えきれないほどの大きな花束(それは国会南通用門
で殺された樺美智子さんに供えるためのものだが)が前の机に置いてあるのが印象的だっ
た。
 「声なき声の会」が四〇年続いているお蔭で、六〇年安保時は小学生だった私も今にな
って参加でき、小林トミさんにもお目にかかることができたばかりか、拙文を『たより』
に掲載してもらったりもした。
 日本では、今も日米安保はなくなっていないどころか、自衛隊は海外に派兵され、「君
が代」は国歌とされ、さらに政府は憲法九条などは全く無視しアメリカの侵略戦争に積極
的に賛成する有様である。有事法制は国会に提出され、教育基本法も変えられようとして
いる。
 一人でも反対の声をあげよう。同時に私たちはいつまでも声なき声でありたい、そのよ
うな励ましを私に与えてくれたのは、小林トミさんである。私はこの出会いを宝として今
後とも、この原則を大切にしていくつもりである。


帰らぬ女性

松本市壽

 小林トミさんのお通夜に行った。法要のあと棺の窓から見えたトミさん穏やかな死顔が
眼の底にあって忘れられない。翌日の告別式にはどうしても出られないので、わが家の机
に向かいトミさんとの来し方の日々を思い出している。
 ああ、この時間には式も終わり、トミさんの安らかなあの顔も焼き場の炎と一緒に昇天
する頃だなと想像するとも、思わずぐっと悲しみがこみ上げてきた。机の前のボードはト
ミさんの宛名でよく「声なき声の会」の予定を知らせる案内はがきをピンアップしていた
ものだ。はがきを補うかのように、よく電話もきた。トミさんが亡くなって、そんな非常
事態を知らせるいつものトミさんの声が聴かれなくなった。そういう下世話なこともすべ
てトミさんの役割だったなあと気付く。
 六〇年安保に反対して、名もない市民の声なき声を訴えるために「またデモで会おう」
の合言葉から始まった声なき声の会。名もなき市民とはいうものの、そこには高名な学者・
文化人も無名の市民顔で参加した。トミさんが、この会をどういう経過から引き受けるこ
とになり「声なき声」の顔になったかは詳しく知らない。私は思想の科学研究会からの縁
で途中から参加するようになった。むしろ、べ平連が盛んな頃二トントラックを出し機動
力となった。べ平連が終息してから、とびとびに顔を出した程度。
 トミさんはべ平連主導の過激なデモにも、声なき声としての一線をいつも敷いていた。
そこがもどかしくも感じられたが、今思うと声なき声の立場として大切な自重的態度だっ
た。わたしを含め、時に気まぐれな参加者の多い市民運動のカナメ役として四十年以上も
地味な幹事役を黙々と背負い続けた女性に無言でこうべを垂れるしかない。
 声なき声もべ平連も、知・情・意のうち〈理知と意地〉の勇み足で〈温情〉に欠ける。
理知と意地の世界はあるべき理想をわめいて常に空理空論を虚空に撒きちらす。温情派は
三分の理想を大切にして着実に実行する。声なき声は面白い形の複合体だった。
 トミさんの喪失でひとつの時代は終わった、とべ平連の吉川勇一は言う。わたしもそう
思う。わたしは二十数年来、良寛の研究に賭けた。晩年七十二歳頃の良寛の辞世の漢詩に
「草庵雪夜作」がある。〈みわたすところ七十年あまりを、俗世間の是非=よしあしを嫌
というほど見てしまった〉と。トミさんの痛恨の思いも封印されたかも知れない。
 声なき声の今後は〈是か非か〉の議論も大切だが、参加することでわけもなく楽しくな
るような雰囲気づくりをもっともっと取り入れる必要があると思う。トミさんは,やはり
そうした会のあり方を思い描いていたと察する。それにしても帰らぬ女性の大きな主柱を
失ったことを惜しむ。(一月七日記)


小林トミさんのこと

松本弘子

 一月三日の朝刊を開いてびっくり仰天したのは、トミさんの訃報が載っていたことです。
ええ、まさかという思いでした。その前に、交流のあった松井やよりさんが亡くなられて
ショックを受けていましたのに、今度はトミさんとは、何と悲しいことかと胸はり裂けん
ばかりでした。トミさんがご病気とは全く存じませんでしたので信じられぬ思いでした。
 その前に私の夫も永眠、残念ながらトミさんの告別式にはお伺い出来ませんでした。
 思えば、一昨年九月、横浜の望月寿美子さんのお宅でトミさんとお目にかかったのが最
後でした。昨年は望月さん宅に集まるお知らせがなかったものですから、お手紙差し上げ
て、夫の看病にて今年は欠席ですと伝えたのですが、何の音沙汰もなく、その頃からお具
合が悪かったのでしょうか。
 トミさんとのおつき合いはこの十数年でしたので、ほかの皆さんより縁薄かったのです
が、いつもゆったりおおらかで、おおような態度を学ばなくてはと、せっかちな自分を反
省したものです。
 ただただご冥福をお祈りするばかりです。


共感と励まし

宮地忠彦
 
 もう一〇年ほど前のことだが、池袋の勤労福祉会館の1階のロビーで、小林トミさんに
私の個人的な話を聞いていただく機会があった。その少し前に、私は声なき声の会の例会
に初めて参加し、その後も毎月の例会と6・15集会へのお誘いのハガキを、トミさんか
らいただくようになっていた。  
 私はその場で、「五つ以上の市民活動に関わるようになり、どれも中途半端になってき
たから、特にやりたいと思っていた活動に集中したい。だから、例会には参加できなくな
るが、六月一五日に集る方々のお話を聞きたいので、6・15集会には出たい。」といっ
た話をした。いわば個人的な事情や思いのようなものを、私はトミさんに聞いていただい
た訳だ。  
 その時、トミさんは、いつものように微笑みながら、「私も同時に複数の運動やサーク
ルに関わっていたことがあるから、あなたの話はわかる。その(私が集中的にやろうとし
ていた)活動は大切なことだから、がんばって。」というような話をしてくれた。  
 私は、熱心に参加を勧めてくれているトミさんの誘いを断わることに、負い目を感じて
いた。だから、その時、とにかくトミさんが私の話を承諾してくれたことに、ホッとして
いただけだった。しかし、後になって心に残ったのは、その時のトミさんの、話を聞く姿
勢だ。私などトミさんの運動経験に比べたら、当時も今も赤ちゃんのようなものだろう。
けれども、トミさんは私の目線に合わせて、私の話に共感してくれたのだった。  
 そして私は、知らぬ間に、そんなトミさんの共感に励まされてきたように思う。私はこ
こ数年、ある病気の家族会の活動をしている。反戦運動とはあまり縁のない活動だが、そ
の活動に関わる私をどこかで支えてくれたのは、一〇年前のトミさんとのお話と、その後
の毎年の6・15集会の関わりだった。  
 今年の正月、突然の「知らせ」をお聞きして、久しぶりにトミさんの本『貝がらの町』
をひらいた。以前、次のような箇所に、私は線をひいていた。
 「私は絵を書いていますが、絵を書く場合、理論家があって、それにしがたって絵を書
くのではないのです。それこそ自分の内面的なものを大切にして自分で絵を描くわけです
から、私が『声なき声』に参加するのもやはりそれと同じだと思います。」
 私がある家族会に参加しているのも、その活動の「普遍的な正しさ」
を信じているからではない。そこには「自分の内面的なもの」と響きあう何かがあるから
だ。その何かについて、一度ゆっくり、トミさんに話してみたかった。もうその願いはか
なわないけれど、これからもトミさんの共感に励まされながら、私は市民活動を少しずつ
続けていくのだろうと思う。トミさん、私は、もう少しがんばってみます。


トミさんの居ない集会

竹入マリ子

 「マリちゃん 元気!」トミさんのあの少し高い声をもう聞くことはできません。自然
体で一市民として自分の信じることを語り続けました。理不尽なことに怒りました。でも
ご自分の主張を他人に押しつけることは決してない方でした。  
 だからこそたとえ細々であってもトミさんのもと「声なき声の会」は続いたのでしょう。
トミさんは自分の言葉で呼びかけ、また、他の人の言葉に耳をかたむけました。この姿勢
こそ会を維持し続けた原動力であったと私は思っています。
 今年の六月十五日は、はじめてトミさんの居ない集まりとなります。もしかしたら「声
なき声の会」の最後の集まりになるかもしれません。けれどもトミさんが信じ、呼びかけ
語り続けた自分の良心に従い発する声は消えることがないでしょう。
 今イラクでは、罪のない人々がアメリカの言う「正義のための戦争」の名のもとに殺さ
れています。戦争に正義などありえません。
 トミさんなら「戦争反対」と一人でも語り、皆に呼びかけます。「皆さんも一緒に反対
しましょう。よかったらどうぞ。誰でも入れる声なき声の会です。」
 残された私達は、このトミさんの思いを大切にしていきます。


『たより』の原稿

増田浩司

 小林トミさんは会うと必ず『たより』に書いてねと私に言った。しかし、私は文章
を書くのが苦手なので一度も『たより』に投稿することがなかった。それなのに初め
ての投稿が追悼の原稿になろうとは考えもしなかった。
 小林トミさんとは帰る方向が同じなのでよく一緒に帰った。青木さん、磯村さんと
ともに常磐線沿線組ということで、とくに6・15のときは四人で帰った。
 電車に乗っている間の会話で私が一番印象に残っているのは、妹尾河童さんの『少
年H』を手本に自伝的小説『少女Z』を書いているという。『貝がらの町』で子どもの
ころの話を書いたが、新しく書き直して現在までのことを書いているという。なかな
かペンは思うように進まず苦労していることを話していた。
 トミさんは手書きにこだわった反面、ワープロを買って密かに練習していた。使い
方がわからずによく愚痴をこぼしていたが、時代の流れからパソコンをやりたがってい
た。ワープロもままならないのに、パソコンにはどうしても踏み出せないらしく諦めて
いたので、岩垂弘さんがパソコンを始めだしたときはショックだったらしい。岩垂さん
は手書きからワープロになっていたが、ワープロがパソコンの普及とともに生産されな
くなり故障したのでやむなくパソコンに替えたのだった。
 トミさんは生前、『たより』を100号まで出したいことよく言ってました。今回
の99号、次回の100号は小林トミさん追悼号にすることを3月15日の打ち合わ
せで決めました。それに6・15集会をやることも。
 今年もいつもの人懐こい顔で「6・15集会に来てね、待っているから」と声が聞
こえてきそう。
 トミさん、デモで会いしましょう。


並ぶ者がない強さ       

青木和子

 一九九〇年、自民党が「国連平和協力法」を言い出したとき、「これは大変。ここで意思
表示しなくて、どうする」と、十数年ぶりにデモに参加しました。
 渋谷・宮下公園に集まったのは、わたしの予想に反して、簡単に数えられるほどの参加
者。若者の姿はとても少なく、勤め帰りのサラリーマンという風情の中年以上の人たちば
かりでした。でもといえば、その昔何度か参加した「べ平連」のデモしか知らない私は、公
園のうす暗がりに三々五々集まってきている年配の参加者たちの数の少なさに、驚き、そ
して感動しました。
 小林トミさんと初めて言葉を交わしたのはその時でした。
 「べ平連」のデモでは、「声なき声」の青い小旗を持ったトミさんは、いつも大勢の人たち
の輪の中におられ、声をかけようなどとは考えもしませんでした。ところが、宮下公園で
のその時は、何十年も前のことを思い返しているうちに、お声をかけてみたくなってしま
ったのです。それがきっかけで、「声なき声の会」の例会にも参加させていただくようにな
りました。
 その中で、三〇年もの間(一九九〇年当時)、初心を忘れず、筋を通してこられた方々
を知ることができました。そして、トミさんのゆるぎない姿勢。来るものは拒まず、去る
ものは追わず、自分の信念に従って淡々と行動しておられるその姿に、たくさんのことを
教えていただきました。
 鶴見俊輔さんが言われるように、弱い個人が持続している運動が「声なき声の会」なので
しょう。しかし、それを四〇年以上も持続させたトミさんの意志の力は、並ぶものがない
ほどの強さだと思います。
 微力とはいえ、トミさんの遺志を受け継ぐためにも、非力で弱い人間であることを恥じ
ることなく、ゆるぎない意志だけは持ち続けたい、と願っております。
 小林トミさん、長い間おつかれさまでした。いろいろお世話になり、本当にありがとう
ございました。
 どうぞ、ゆっくりおやすみ下さい。


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2009年06月22日

国会南門前は土砂降り

今年の「6.15集会」は、月曜日の夜ということもあって
参加者は50名弱とやや少なかったのは残念でした。
それでも初めて参加された方が2名おられたのは心強い
かぎりです。また、しばらくお顔が見られな買った方々も
何人か参加されていました。
残念だったのは、NHKでお元気な姿を拝見でき、
この集会に毎年参加いただいていた、鶴見俊輔
さんが体調が優れないため、「メッセージ」での参加に
なったことです。「メッセージ」のなかで、今年の4月に
亡くなった、上坂冬子さんが思想の科学を「職場の
群像」によって得た新人賞の賞金が、「声なき声の会」
の基金となったことが述べられています。
集会の写真は大木晴子さんのホームページの「大雨の
国会南通用門前に
」たくさん
掲載されていますので、そちらでご覧ください。
鶴見さんのメッセージ.pdf
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2009年06月14日

どうやら6月15日の東京地方は雨が降らないようです

天気予報によると、今年もどうやら雨は降らないようです。
なお、当日「集会」には参加できないが、「樺さんへの献花」
には参加できる方は、午後9時ころ(多少遅れるかもしれ
ませんが)に国会南門前においでください。
下の写真は昨年の国会南門前で撮影したものです。
撮影者は丸山新男です。
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2009年05月23日

二〇〇八年6.15集会

これまで三回に分けて、掲載してきました、二〇〇八年の6.15集会
の様子をまとめました。これをもとに、「声なき声のたより」
一〇四号をつくります。二〇〇九年の6.15集会の会場でお渡し
できると思います。
二〇〇八集会.pdf
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2009年04月12日

2009年の6.15集会のお知らせ

2009年の6.15集会のお知らせ
日時 6月15日(月曜日) 午後6時より午後8時45分まで
場所 豊島区勤労福祉会館 4階 第三会議室・第四会議室
   集会終了後 国会南門前にて樺美智子さんに献花します

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1989年6月15日
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2009年04月02日

NHK ETV特集 鶴見俊輔 〜戦後日本 人民の記憶〜

NHK ETV特集 鶴見俊輔 〜戦後日本 人民の記憶〜
放送日 2009年4月12日(日)22時から23時半 NHK教育テレビ

皆さん是非ごらんください!!

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80年6.15
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2009年03月17日

2008年「6.15集会」最終

2008.6.15集会  続き その3

吉川さんに続いて

黒川
黒川創です。僕は1961年の6月15日が誕生日なので、今日で47歳になったんですけれども、自動的に樺さんの48年目のご命日なんですが、もうあと2年で50周年ということなんですが、自分の少年時代を考えますと50年というのは天文学的な数字で、自分が50年後って、生きているとは思えなかったし、でもこの年齢になると結構50年なんてそばなんだなと感じる気持ちの方が強くて、それは自分が結構いい年になったせいもあるんでしょうが、もう一つは周囲ににいらっしゃる方が48年目にいらっしゃった方が結構そのままお元気で・・。というのは、あんまり深く考えているわけではないのですが、人の寿命の延びというのは、一種の思想史的な変化を孕んでいるような感じがします。例えば、明治の方でも50年後の証言を残すということで、話しを聞きにいったりするといろいろ話して下さるということはあったでしょうが、今、48年前の課長さんだった方が、まだ身体を運んで、ここにいらして、国会の南門まで行かれるわけですよ。自分の体を動かせるという、それは後期高齢者の保険の問題等々はあるんですが、実際に肉体的な条件ということが、そういう問題さえも生むぐらいの延びがあると言うことは、大変なことだと思うんです。というのは、よく以前から戦争経験の継承みたいな言葉が・・、自由主義的な集まりの中からよく言われましたけど、結構それは眉唾というか、自分の気持ちにピタッと来ないというか、自分の経験じゃないものは継承できるかというと、そうとう怪しい、怪しむにいたる余地があると思うんですよ。むしろ50年かけて一人の人間が、自分の考えを変えたり、読み直したり、考え直したりしながら50年後もある場所に身体を動かして行くと言うことは、相当、同じ事をやっていると言うことではなく、意味の読みかえとかと言うことを含めて、自分の経験の継承なわけですよね。あるいはそれよりずっと年の若い僕とか、僕よりずっと下、子どもくらいの世代の方も今日はお見えになっているわけですけども、一緒にその人たちがパッチワークのように、立ち混じるというか、そこでお話を伺ったり、あるいは議論したり、じっと見てたりするということが出来るというのは、継承しているんではなくて、また新しい、僕なら僕、若い方なら若い方自身の経験の経験としてあるわけで、そういうふうにお元気で長生きして、その人たちにとっても経験の更新であったり、あるいはその人達と立ち混じることで一人一人の新しい経験を生んだりするっていう条件は、かなりこの時代ならこの時代で変わってきていることがあるように、感じを、あの、考えることが、この頃多いなと思っています。ちょっと我田引水なんですけど、我々京都で「編集グループSure」っていう小さい出版の、自分たちのプライベートスペースというか、手作業で本を作って、郵便でお送りするというような、出版をしていまして、そこで鶴見さんにも当初からお知恵をお借りしてやっているんですが、そこでは50年どころじゃなくて、鶴見さんがもう70年前に、東大ならぬアメリカの大学でプラグマティズムを学ばれた頃の経験というか、勉強をもう一度解釈し直すと、どういうことになりますかというお話を1年くらいかけて伺った記録が、この「たまたまこの世界で生まれて」という本なんですけれども、こういう本にしております。吉川さんにならって宣伝になっていますが、これは2300円の税サービスということで、何冊かお持ちしたんですけれども、あと鶴見さんに企画をたてていただいて、何人かの方に座談をして頂いているんです。我々よりも若いメンバーも入るような形で鶴見さんと山田慶兒さんという科学史家の方が、大変面白い話しをして下さいまして「鶴見俊輔と考える」という全五巻のシリーズなんですが、これが第一巻目で、第二巻目は柳瀬睦男さんという上智の学長もされた物理学者なんですけれども、カソリックの神父さんで、ある意味では先ほどから話されている学生運動とは違う立場を持たれた、もともとはリベラルな方なんですが、学生運動が取り留めもなくなって仕方なく、むしろ機動隊を入れる決断をされた方ですね、副学長という立場で。それを含めて科学と信仰の間というテーマで鶴見さんとお話下さってまして、これは2つ1200円で、何冊か今日持ってきてみましたので、ご興味のある方は、お声をかけて下さり、是非読んで頂きたいなと思います。という宣伝の方にいってしまいました。失礼します。

瀧口
 私も「編集グループSure」で本を作っています。瀧口と申します。声なき声の会には、初めて今日来たんですけど、たくさんの方がいらしてちょっとビックリしました。私の母がアイヌで、父は山梨県人なんですけど、そういうこともあって、私は赤ちゃんの時から、家の母が、社会運動とか、その頃よくあった地域民衆史運動というのかな、そういう講習会に出かけたりしていて、運動というか、社会を明るくする運動に私はよく、子どもの時、連れていかれていたんですけど、私の記憶によると、そう言うところにいくと、話し合うと言うよりも、なんか偉い先生が今日来ているかどうかとか、握手をしあっているおじさん達とか、そういう記憶があって、ずっとアレルギーみないなものを持っていたんですけれども、Sureで本を作るようになって、鶴見さんのお話を伺ったりとか、その流れで九条の会にいったり、べ平連の会にいったりしているうちに、運動にもいろいろあるし、人もいろいろいるんだなということが分かって・・、運動に対する疑いみたいなものがあって・・、今、アイヌの若い子立ちはラップで、アイヌのことを歌ったりとか、踊りでいろいろ表現したりとか、私もがんばって欲しいと思うんですけれど・・、そのアイヌの若い人たち対しても私は疑いを持っていて・・、疑いながらも参加するっていうんでもいいかなと思って参加しました。今日は一応、念のためSureの本もこんなに持ってきたので、よろしければ声をかけて下さい。

鶴見
 杉並からまいりました鶴見といいます。2003年に一度ここに伺ったことがあって、それ以来5年振りに来ました。記録のために申し上げておきますと、2003年にはこの形ではなくて、普通に机が縦に並んでいて、普通のセミナー室と変わらない形だったんですが、断然この配置の方がいいなあと思っています。たまたま20代前半の学生と話すことが多いんですけれども、私としては、彼、彼女らから荒削りでもいいから、青臭い、堅実な話し、意見というものを聞きたいんですけれども、最近の若い人って擦れてきていて、なかなかそういう話しを聞けないんですね。私の聞き方が悪いのか、もう少し時間をかけて聞く必要はあると思っているんですけれども、この場所に参加してみて、いい意味での青臭さ、あるいは堅実な話しというものが、みなさまの年齢とは別に、良質な部分が青臭い形で残っていると、ずっと私感じています。そこから翻ってみますといい意味での青臭さというのは年齢とは別なんだなということを考えております。それを運動という形態でなくても、個という部分でもいいから、これからも言い続けていけたらいいなと思っております。

久保田
 足立区の北千住からまいりました久保田と申します。週刊金曜日の「市民運動掲示板」にこの会のことが載っておりまして、それをみて参りました。全くこの会のことは存じておりませんでした。大変な席に座ってしまったなと後悔しております。亡くなった方の亡くなった意味というものは生きている方にあるのだと思います。今日は、樺さんの亡くなったということをどのように、その志というか、そういうものを受け止めて、その志を、今日の自分の現実の中に、どのように位置づけておられるのかということを学びたくて参りました。この話し合いのシステムを見ましても、この会の主旨、あるいはなさろうとしていることが感じられます。私自身は、今、最大の問題として憲法九条を守っていきたいということにかけております。66%が改悪反対、22%が改悪をやむを得ずとしているのでしょうか、支持しているということでしょうか、朝日新聞の先月の発表でありましてけれども、だけどこの数字は変わるし、すぐに後退するし、非常に可変なものだと思います。1年前までは逆だったわけですから・・。この22%がゼロになるまで、変えるの賛成という声が無くなるまで、いろんな形で、いろんな所で頑張っていきたいと思います。護憲というとネガティブな感じがするんですけれども、「国際公約」としての憲法九条をいろんな形で、世界に発信することによって、できれば世界が、各国が九条を憲法にするということがどのくらい現実性のあるものか分からないですが、がんばっていきたいなと思います。守るということ、最大の守りというのは、攻めなんじゃないかと思います。だから変えるのを阻止するのでなく、それをもって世界に発信していくことが大事なんじゃないかと今、考えております。

青柳
 青柳です。埼玉県の狭山市から来ました。60年安保の頃はデモの渦の端っこにいたりして、その後もべ平連運動の中にもいたことがあります。朝のNHKラジオの6時50分から「今日は何の日」というコーナーがあるんですよね。今日は耳を澄まして聞いていたんですが、60年安保のことについては一言も語ってないんですよ。2〜3年前までは、60年安保のことも、樺美智子さんの死のことも、話したことが聞いたことがあったんですが、(会場から「今日やっていましたよ」との声)・・。今日やっていた?。あっ、じゃあ、聞き違いです、すいません。それはよかった、ホッとしました。会長が替わったんで、NHKはそこまで統制したかなと怖れていたんですが・・。安倍内閣が倒れて、この1年ある程度精神衛生がいいんですね。ちょっとですけど。それが最大の罪を犯したこと、許せないことは、教育基本法を「改正」したことですね。これが教育現場にどれほど大きな悪影響を及ぼしてくるかということを怖れているんです。相手は、長い時間をかけて国民を作り替えていくということを狙っているわけで、一時的に新聞の世論調査なんかで、護憲派とか、憲法九条改悪反対とかの勢力が大きくなったとしても、次の次の世代をねらって、教育現場を若い世代から締め上げてくる、頭の中を改造してくるということに、注目しておく必要があるんじゃないかと思うんですね。私にとって、ここに来る意味というのは、私自身がどこまでブレているか、あるいは流されてしまっているかを、再点検するという意味合いでみなさまの話を、貴重な話しを伺っております。年をとると守りの生活、姿勢が多くなるんですが、ささやかなことでやっていることは、親がもうだいぶ高齢で、88歳で、ちょっと認知症も始まっているんで、どうしても郷里に帰って介護の一端を担わなくてはならないってことで、月一回、一週間から十日くらい、新潟県の長岡、田中角栄の旧地盤だったところで、越山会の強いところです、ここに帰って、そこに私の仲間達がいるんですね。そういう生活をしている内に、ただ酒を飲んで世間話をしているだけじゃつまらないということで、ちょっと呼びかけたんです、憲法自身を呼んでみないかと。そして乗り気になった者が4〜5人出てきて、そして昨年一年間かけて、日本国憲法全文1条から最後まで読みました。そしていろいろな議論をして、そしたら友人が英文のものもあるよということで、こんどはそれに挑戦してみようということになって、いまみんなで四苦八苦しながら、単語をひいて読んでいます。内閣・・・あのー、長くなるので、これで失礼します。 

小形
 神奈川県から来ました小形と申します。平和の問題を考える中でこの会にも参加しています。ここ何年か連続して参加しています。最近平和の問題を考えるときに何が大切かということを漠然と考えたりしていたんですが、例えば15年戦争の時に亡くなった方々の文章、どういう具合に亡くなっていってかなどという文章をみたりすると、この人たちも私と同じように肉体をもって暮らして、だけども誰かのために自分の人生を終わりにさせられたと思うんですね。で、そういう終わりにした人たちに対する怒りとかは、あるわけですけど、亡くなったそういう方たち私と同じように血が流れていて、肉体があって、そういうところから考えをスタートすべきかなと思います。抽象的な人間というのはいないわけで、みな感情はあるし、血は流れているし・・、と言うところですね。だから私にとっては、会ったことも見たこともない人ですが、感情豊かで感覚的なものを持っている人たちだと思えます。そこからスタートして理屈としての平和の方に行くべくではないか、と感じています。だからスターラインがどこにあるか、イデオロギーの平和からスタートすると、長続きはしないような気がするんですね。そんなことを少しづつ考えながら、平和の問題を考えようと思っています。 

田中
 東京の田中と申します。今日この会に出席させて頂いたのは、和歌山の奥の方で本多さんがいろいろとご活躍されていると、また十数年ぶりに、本多さんと苦楽をともにされている尾家さん、この方の翻訳の本と本多さんの三冊の本を今年になって頂戴いたしまして、それを読みまして、是非本多さんにもお目にかかって、いろいろお話を伺いたい、ということが第一の目的で参加させていただきました。ここでたくさんの方々から、古いお話しから最近のお話まで、いろいろな形で、それぞれの所で運動をされている方たちのお話を伺って、私のこれからの人生の糧になることもあろうかと思って拝聴しています。特に私は、平和の問題というのは最大の重要な問題ですし、きわめて軍事的な行動がさかんに行われている状況の中で、最大の課題だと思いますが、同時に日常の命と生活を守るという問題ですね、これは一緒になっていく大事な問題と思っております。みなさんご覧になった方もいると思いますが、マイケルムーアの「シッコ」という、だいたい医療関係を中心にした映画が上映されて、ブッシュ・・、一億円の罰金を支払わされたそうでうけども、この中ではカナダを始めとして、もちろんアメリカが中心ですけども、アメリカの医療の実態とカナダ、イギリス、フランス、ヨーロッパの医療がどういうものであるのかということ、最後にキューバが出てくるわけですけれども、いわゆるヨーロッパの民主主義の中に育った人を代言する医療の問題が非常に詳しくのっているわけですが、それに対比してアメリカがどんな悲惨な状態であるかということが出ているわけですけれど、そういうものを見まして、今の日本で行われようとしている、まさに大量の姥捨て山、というのは私は正しくないだろうと思いますが、今の政権による大量の殺戮行為であると、そういうところまで思い詰めているわけであります。それは私自身の家族も問題も含めまして、周辺に住んでいるの80歳前後、あるいは80歳以上の方々がどんな悲惨な状況にんばっているか、それがますますひどくなって毎年二千二百億円を削ってですね、すすめていこうということがはっきりしているわけですけれども、あるいは食の問題、年金が少ないと、どうやって食べていくかという問題を含めまして、今の日本は大変な問題にぶつかっているとそういうふうなことにあわせて軍事的な、特にアメリカの要請によって、軍事行動を中東まで広げていこうということについて、大変な問題が日本の私たち国民に突きつけられているんじゃないか、私はベトナム戦争のハノイのトンキンワン事件の前に、使節団の人たちとハノイに行っています。現在に至るまでベトナムとの関わりを持っているわけですけれども、あれはまったく嘘であったと、これはイラクの問題と同じなわけですけれども、そこにどれだけの犠牲者が出ているのかそれに日本が追随をしている、そういうふうな問題について私たちはどういうふうに考えたらいいだろうか。60年安保の話しが出ましたけれど、ああいう大きな高揚の時期があったわけです。最近「光州5・15」という映画が、小さな映画館でやっているわけですが、光州の市民の人たちがチョンドファンの軍事行動に対して反対をしたのか、あれから大分時間が経ちましたけど、民衆の心の中に残っていて、アメリカが押しつける牛肉の問題で百万の人たちを動員できるという今日の状況ですね、こういうことは私たちがもっと真剣に考えなくちゃいかんことだと、また私たちも力があると、先ほどは本多さんのほうから世界九条の会が大変な盛会であったとご報告がありましたが、そうことを聞くに付けそう思いますけど、今日はどちらかというとみなさまの話を良く聞くということで伺ったわけであります。どうも失礼いたしました。

金井
 金井です。あのー先月、5月11日に現代企画室の太田昌国さんという人が、今年・・、ちょっと補聴器はずさないと、自分の声が響いて来ちゃっておかしな具合なんで、聞こえないんですよほとんど、(鶴見さん「女優じゃないですか」)、いやーだから鶴見さんに、女優にもピンからキリまであって、さっきの詩の中じゃないけれども、私はやっぱり、芝居を昔やっていたから・・、鶴見さんがいう女優って言うのはものずごく、ある批判が入っているから、あまりきちんと受け取らない方がいいと思うんですけれども・・。太田昌国さんが今年キューバ学校というものを年三回やるというもんで、その初回に、キューバ危機のときに絵描きさんで行っていた富山妙子さんと太田昌国さんのキューバ、まあよもやま話し、それと私に岩田弘の「グァンタナモ」の朗読をやってくれないかと、それが2月に話しがきたんです。私は昔、芝居をやっていたけれども、朗読って言うのは成功したためしがなかったんですよ。もういっぱい朗読をしてきた、岩田さんの「長い塀」もやったことがあるし、最後の朗読って言うのは42年前に、ボルヘルトの散文詩、あの「戸口の外」を書いた、24歳で死んだドイツの作家ですよね。そのボルヘルトの散文詩を太田省吾、この間亡くなったけれども、その太田省吾の演出で5人の女優がやったんですよね。で、それが最後で詩の朗読、42年前。ホントに詩の朗読というのは成功したことがないんですよ。吉本さんの廃人の歌とか、ロルカとか、芝居屋って言うのは、舞台がオフの時は割と朗読の会というのをやるんですよ、訓練のために。で、だいたい失敗する、できない、というのはやはり、韻にのせちゃうとすっぽ抜けて行っちゃうんですよね、中が。で、もう朗読というのはやるまいと思っていたんだけれども、まあ一人芝居で20年前にやって、とにかく20年間、全然人の目の前にさらしたことが無かった我が身を。それはちょっと待ってもらったわけね、お返事するまで。だけど岩田さんの「グァンタナモ」の最後の第四章の最初の言葉っていうのは、「グァンタナモ我々の夢のかけら」から始まるんです。これは4つのパートになっていて「グァンタナモ我々の夢のかけら」でその次もあって、次が「グァンタナモ夢のかけら」になるんです。で最後が「かけら」だけになるんです。で、その最後の「かけら」のところで彼は、「我々に、我々を、君らにつないでくれ」っていう詩があるわけなんです。その次に「君らを我々にくれ」っていうんですよ。で、最後は「遺言によって傷だらけのクローム鉄鋼のように」っていうので終わるんだけれど、私はこの何行かを立って、最後まで伝えられるかどうか、若者に。それから、これは自信がなかったんですね、自分の中にそれだけの力があるかどうか。だけどこれは私の最後、75歳の正念場であると、私はこれで、人の前で何かを演ずることは終わるだろうと、でこれは私への挑戦であると思って、太田さんにやるって言ったんですよ。それで自信がないから、昔の、60年代に一緒にやっていた自由劇場の演出家だった水元っていうのに、一緒に見てもらいながら、二人でその「グァンタナモ」を作り上げたんだけれど、出来たかどうかは、とにかく最後まで立っていられたというぐらいのことなんだけれど・・。その当時、あおのキューバ危機の時、アメリカが海上を封鎖した時に、フランスのアニア・フランコというのが、キューバに行っていて、それで「キューバの祭り」を書いていて、私は、それを30ぐらいの時に読んでいたんですね。で、それをもう一度読みかえしてみて、今回。で、その時にフランスの女性だから、熱狂とつぶさに見るクールさというのが今でも生きているんですよね。で、私が、丁度それを読んだ頃というのは、60年安保の2〜3年後ですよね。で、まだ私の中に何かが残っている。60年安保。毎日出かけていった自分の情熱というのが、それが重なって生きているって言う感じ。アニア・フランコの「キューバの祭り」は。で、よくぞ太田さんが私に呼びかけてくれた。太田さんと私では、だいぶ違うんだけれど。太田さんが私に「グァンタナモ」を与えてくれたことに、すごく感謝しているんですけれども。私は、その力がまだ、まあ自分への挑戦ですから、少し残っているというふうに、私は自分の中に、そう思ったんです。で、立ってられた、ひっくり返らなかった、とにかく。そんなようなことが先月ありました。どうも。

余川
 思想の科学社の余川です。今日は、あの、さっきラジオで言ってましたよって、いったんですけど、今日も本当は、仕事で押しつぶされておりまして、鶴見さんの顔をまともに見れないなと思って、本当は来たくなかったんです。それは余計な話しですけれども、すいません、ちょっと思想の科学の宣伝をさせて頂きますと、60年分のダイジェストというものを作っています。これは多分、日本の出版の中では類を見ないものだと思っています。量といい、巾といい、理念といい、とにかくそれは、このままいくとちゃんと出ますので、出たときにはどこかで必ず見て下さい。それがありまして・・、それから今日は日曜日だというので、なぜか思想の科学社に声なき声の会の集会がありますかという電話がたくさん入りました。いままでこんなことはなかったことなので、えっとか思って、ますます私は行くのがつらいなと思っていたんですけど、朝のラジオで、今日は樺美智子さんが亡くなった日ですと、ちゃんと言いました、NHKのラジオで。それで、ああ行こうと思って来ました。で、私は日本だけじゃなくて世界中がなんか、パレスチナとかイラクとか見ているとうんざりしちゃう感じになってて、若者には抗ガンガン?が流行っているとか、それで環境ホルモンで精子ができないという話しを聞くと、ああ人間はこのまま滅びるとかって、すぐ突っ走って考えるぐらいの人なので、なんか絶望的な感じに最近はなっています。でも、声なき声のここに来ると違うんですよね。ここに来る人たちというのはずーっと昔からそうなんですけど、やっぱすごい人たちだと思っています。1年間ずーっと、こう、なんて言うのかな、維持していけるんですよね、その生活を。そういうのっていうのは、いつも背筋がピンと、ここに来るとなります。それだけです、すいません。あっ、もう一つだけ、すいません。さっき鶴見さんが褒めて下さいました羽生康二さんの「昭和詩史の試み」っていうんですけど、それは思想の科学社から出させてもらいました。よろしくお願いします。

道場
 初めて参加しました、道場親信と申します。僕は1967年生まれなんですけれども、1960年の6月15日には、国会の前にいなかったんですけれども、1992年の6月15日には国会の前にいました。それは何であるかというと、PKO協力法が6月15日に通過したんですけれども、そのデモに、一ヶ月ちょっとの間ですけど毎日国会のデモに行っていました。それが個人的な60年安保というとなんですけれども、自分自身が戦後の日本というのはある限界を持っていて、それは突破されないだろうという、どちらかというと安心感を持っていたんですけれども、それが実際には、どんどん成長し大きくなってしまった自衛隊をついに海外に出すという、そういう事態に立ち至って、いよいよ出てしまうという危機感の中で、一ヶ月くらい国会に通ったというのがきっかけでありました。で、結局、そこで法案が通ってしまって、自分が楽観していた戦後というのは何だったんだとか、戦後の平和主義というのは自衛隊を出す段階に至ってしまった、これはどういう事態だろうかと考えて、それ以降戦後史だとか、戦後の平和運動史だとかを勉強するようになりました。それで、その少し後くらいでしょうか、新聞を見ましたところ、かつて本か何かでちらっと見たことのある声なき声の会が、毎年、まさにその6月15日に国会に集まっているという新聞記事を見まして、すごく驚いたというか、こういう会がまだ続いているのかと感心をもったことがあったんですけれども、その後も時々新聞に報道されているものですから、今年こそ行こうと思いながら、毎年6月15日で、おそらく7分の1の確率でしか日曜にあたらないものですから、ウィークデーとあたってしまうとどうしても、仕事とぶつかっちゃったりとかですね、いろんなことで参加することができませんでした。過去にも2回くらい献花にはせめて駆けつけたいと思って、仕事がおわってからですね、国会通用門前に行ったことがあったんですけれども、国会を2周回っても人の影が見えなかったりですとか、警官に花をもった人たちが来なかったかと聞いたらですね、来なかったと嘘をつかれたりとかですね、そういう経験をしていて、結局、今日初めてみなさんにお会いすることが出来ました。声なき声の旗も見ることができて、とても感激しているですけれども、この会の持っている意味とかは、すでにみなさんいろんな形で語られて来ていたんですけれども、何て言うんでしょうか、1960年というのは、本当にもはや48年も前のことで、そこから持続されている様々な人のつながりと志のつながりというものが、持っている重みというものをどういうふうに伝えたらいいのかわからないんですけれども、少なくともここへ来るとその一端に触れることができるという、そう言う場所なのかなというふうに思いました。私自身は運動の場所に関わる、何か自分なりの志をもって関わるというときに、最初の出発点は、先ほどイデオロギーから出発することはできないと発言された方がいましたけれど、私自身は、何であれ、出発してもですね、それが持続できない時というのがあるだろうと思いますから、逆にそういうときに、人が、どういう出発点をもう一度さがすのかとか、どういうふうに自分自身のあり方というものを考えていくのか、ということが、その後を規定してくると思っていまして、おそらく92年の自分というのは、非常に楽観的であり、戦後というものをよく理解しない、そういう青年であったと思いますけれども、そこから今日、もう少し戦後というものを考えてみるような、第一段階の転向、まだ本格的な転向ではありませんけれど、を遂げたと言う意味で、この16年を、6月15日という日を一つのつなぎ目として、これからも考えていきたいと思っています。終わります。

湯浅
 横須賀から来ました湯浅と申します。考えてみますと、70年の時は札幌におりまして、札幌べ平連の尻尾についておりました。それでこちらに来まして何年になりますか、この会に、やはり尻尾についております。たぶんこのまま尻尾について、持続だけはしていこうかなと考えております。


 埼玉から来ました東と申します。3回目です。鶴見先生と吉川さんの「市民の意見30」に入れさせてもらって、ここに導かれたという次第です。ある新聞で、画家がイラクの死者を数字だけに留めておけなくなった。その人を、一体一体を描きたくなったって、人間の形を一人一人を書いていく作業を始めているという紹介がありまして、何万人、数字にすればイラクの死者は、何万人といういろいろな説があるんでしょうけれど・・、アメリカの死者が四千を越えて、9.11を越えた死者と、イラクのあれ以来の死者が10万前後って言っていいんでしょう、あるいは7〜8万とか、相当な巾があったりして、その一人一人の死者を、数字で何万というふうに置き換えて見過ごす事が出来なくなったという一人の芸術家のモチベーションというのは、ちょっと教えられる思いとその死者に責任がある日本のいままでの政治のあり方、あるいは国民のあり方ということを考えております。朝鮮戦争でもベトナム戦争でも相当な死者を傍らに見ながら、日本は特需で今の繁栄を得ていた、その死者に対する思いとか、自分たちがそういう政府を抱いているという思いということに関して、私は負い目をもって、ここに参加している一人なんですけれども、吉川さんの話にあるように、最高裁は絶対許す・・、聞かない、まあ、横浜事件再審の運動に関わっているんですけれども、あれ以来、司法はなんら変わっていないと、裁判官が自ら、書類を全部焼き捨てて、その書類がないから再審は無理だというような論理とか、そういう日本の動きをそのままにしているのは、日米安保の分水嶺じゃないですけれど、雨がどっち側に流れるかということで、ずいぶん、こっち側に流れないのかという無力感があるわけですけれども、九条で本当に守ってきたといいながら日本は戦争をしてきたという、姜さんという在日の先生が話されていたように、長くなってすいません、自衛隊を解体とか、対談の中で言ったりしていますよね。それは、雑談の中で言ったのじゃなくて、自衛隊を解体して、今ずごい地球上の災害の人たちに対する救援隊に変換できれば、スマトラとかすごい死者が出ましたし、もう需要は必ずあると、戦争をしている暇はないんだと、今、九条に潮目が変わったのはそういう思いなんじゃないかなと、個人的には感じていて、もうちょっと、そういう思いを伝えられないか、広げられないかなと、そういう思いです。

佐々木
 中野から来ました佐々木と申します。献花には3年前から参加させていただいておりまして、今日は、今年は日曜日ということもありまして、この会から間に合う形になりました。と言いましても、今日も若干遅れての到着になったのですが、私も1961年生まれで、同じ61年生まれの方がいらっしゃるということに、とても心強いなという気持ちをいたしております。出身が岩手なものですから、昨日は実家の母親の安否確認だけはとれたんですけれども、内陸の方の親戚やらの状況が一切つかめないなかったので、それを昼にかけてようやく無事であるということと、被害がさほどのことはなかったと確認できたので、こちらに駆けつけることができたんですけれど。6月15日というと明治29年の三陸大津波の日でもあるわけでして、私たち三陸の人間にしてみれば、その記憶というものがとても大きくて「人民を信ぜずして信じる」ということに繋がるんですけれど、私の郷里は釜石、新日鉄のあった釜石なんですけれど、昔の写真をみるとまるっきり違う町並みが登場するんですね。明治29年に失われるまでの町並み、それから、復興して昭和8年の津波で失われるまでの町並み、それが今度は昭和20年の大空襲で焼かれて、艦砲射撃で千人近い人が死んでしまう・・、その度に、これが同じ街なのかという、それを見極めるのがせいぜい背景の山並みで偲ぶ感じ、というぐらい街がかわっていく。でもその度に、復興してきたんですね。60年当時、私が育った60年代の町の状況みはどうかというと、新日鉄の盛んな時期でありましたから、新日鉄はじめ国鉄の労組も強く、活気があって、事あらば、大人の男たちが、例えば火事だとなれば、消防団の連中がもうわーっと出てきて、猛スピードで走る消防車に飛び乗っていくという、そういう、いざっていうときの大人達はすごいもんだなというようながありましたので、60年当時なんかも組合は、それいくぞとなれば、列車を仕立てて上京するというような、そういう、大人って言うものはすごいもんだな、やるときはやるもんだなと子供ながらに見てきたものですから、東京に行ったら、大木さんのフォークゲリラとかも見ていたものですから、俺は大人になって東京へ行ったら、新宿へ行ってフォークゲリラになって歌おうと思っていたわけ。上京したら一番先に新宿西口に行ったんだけれど、本当に通路になっちゃっていて、本当にここで歌を歌っていたのかななんて、誰か来ないかとずーっと待っていたんです。それでぼんやり自分なりには思想をみがき、詩の心言葉をみがいて
それが平和に繋がれば、としたのが9.11以降に、ガンと殴られたような気持ちで、自分が頑張っている気持ちではダメだ、その時に何をやるか、何をやってきたんだと他人に聞かれて、こうやりましたといえる行動をとってなかったら、これ言い訳も出来ないという気持ちで、焦燥に駆られたような気持ちで、デモに出かけ、その中で大木さんに出会い、新宿西口で立つようになりという形で、今日まで来ているんですけれども・・。それで今日、防災訓練しているのか、津波の訓練でもやっているのかと聞いたら、いや今日は夏祭りで、魚市場で魚焼いていっているらしいよっていうんで、なんか呑気なことやっているなと思って、せいぜい昨日の今日なんだから、防災訓練くらいやってくれよと思うんだけれど。人間というのは忘れちゃうもんなんだな、どんな街を全滅にさせちゃうくらいの災いがあっても忘れちゃうもんなんだな。でもそれを復興していける力もある。またやられておきながら、それでも立ち上がる、それを他の国に攻められ、殺されながらもやって、60年安保の時もそうやって街の人たちも盛り上がった。今はどうか、全然、立ち上がった気概というものがないんじゃないか、でも、絶対ある、人間には絶対それがある、という強い強い確信があって、それに触れたくて、ここにくればやっぱりいるっていうね。最初に言葉を発する人たちがいるはずだ、東京にきたらそれがいるんだという気持ちで来ているので、今日はとても嬉しい気持ちです。

満田
 私は集会とデモが大好きな満田です。よろしくお願いします。今年の東大の五月祭は学生運動のトークをやっていました。それを聞いて、その当時動いていた人の、委員長だか副委員長だか、知りません、もう忘れちゃったんですけど、その人たちが東大の学生達に伝えていて、五月祭だから、いいいことだなと思って、それで家に帰って聞いたら、知らないって言うし、だから私はこういう集会とデモが大好きな満田ということで動いていきたいと思います。以上です。

上原
 上原隆と申します。この会には去年と今日とで2回目です。今年の方が落ち着いて集会に参加できて、いい話が聞けて、なんかとてもいい時間が流れているなって気がします。来年もまた来て、参加していきたいなと思います。よろしくお願いいたします。

西村
 埼玉県入間市から初めて参加しました西村と申します。初めてなんですけれども、声なき声の会は40年ぶりです。私、19歳まで神戸にいたんですけれども、神戸の繁華街で三宮センター街というのがあるんですが、そこの入り口のところで月に一回ビラをまいている人たちがいたんですね。あの君本雅久(「きみもとまさひさ」の漢字?)さんという詩人の方ですとか、あとは文学が大好きなOLの方とか、造船所で働いている労働者の方とか、いろんな人がいたんですが、たくさんはいなかったですね、10人いなかったと思うんですけれども。たぶん高校3年生だったと思うんですけれども、べ平連、当時神戸の場合にはヤングべ平連というのがありましてね、緑のヘルメットをかぶってジグザグデモをしたり、戦闘的だったんですけど、私と同世代かちょっと上の人たちがいたと思うんですけれど、どうもあれは危なそうだから、ちょっとあそこへ行くのは止めておこうと。でもやはりベトナムでたくさんの人たちが殺されていると、しかも当時神戸港には第六突堤というのがあったんですけれど、米軍がそこを使って、ナパーム弾を送り出すような役割を果たしていたようなんですね。ですから、高校生でいろんなことはまだよく分かっていなかったんですけれども、やはり自分が住んでいる神戸港からそういうものが運ばれてたくさんの人が殺されている。黙っていて良いんだろうかという気持ちはすごく強くあったので、声なき声の会の集会に参加して、初めて神戸港にデモに行きました。で、その後、出かけられるときは出かけて、いろんなお話しを聞いたりしたんですけれども、その後、大学に入りまして、声なき声の会とは離れてしまったんですけれども・・。で、個人的なことを申し上げますと、60年安保の時に、樺さんが属した第一次ブンドが社共にかわる新しい労働者の政党、まあ、こうしたことを呼びかけられたことの何十分の一かは、声なき声の会は無党無派なわけですけれども、有党有派で信頼できる存在は、やはりあって欲しいし、あるべきだろうと。で、私の出来ることは本当にささやかですけれども、出勤前にP3Cが入間基地に入ってくるといえば、夜中起きてとりあえず抗議に行くと、ところが向こうもさるもので一日ずらされて、空振りしちゃったんですけれども、そういうことをやったり、あるいはささやかなサークルですけれども、埼玉労働者クラブというグループで、毎週「資本論」を読むとか、そういう活動を細々ですけれどもやっています。40年ぶりなんだなって、なんだかいろいろなことを今日感じさせていただきました。ありがとうございます。

細田
 細田です。1970年にですね、べ平連のデモに参加して、その後声なき声の会に関わって30数年経ちました。このところ毎年、1年が経つのがすごく早いなと感じています。で、この6..15集会は、この一年間にどんなことがあって、どんなことをしてきたのかなと振り返る機会と思って、集会にきています。時間がないのであまりしゃべれませんけれど、そうやって長く続いてきたということは、すごく大事なことだなと思っています。さっき、2003年はこういう会場になっていなかったということが指摘されて、思い出したんですけど、あの時は会場が長くて、最初はこういうふうに作ったんですけど、おかしかったんんで止めたんです。ですから、記憶ですので、いいかげんなところもありますが、こういう形で集会を持つことが主です。それからPKOで6.15の時に国会で出会ったということについてですが、あのとき共同で、声なき声の会とそのPKOのデモの人たちと南門のところで集会をやった記憶があります。本多さんが確かその時に発言をされて、なかなか良い集会ができたなと思っています。そんなところで次の方に回します。

飯岡
 飯岡と申します。今、樺さんの話が盛んにでましたけど、事実、私は彼女が亡くなった時に、学園葬をやりまして、その場にいた人間なんですね。で、その時は全部が研究室ごとに授業をやめて、60年安保の話しをしますということに、どんな頭の固い先生も協力なさったんですね。私がそれからずっとここの会に来ていたんじゃなくて、自衛隊が初めて海外に出るようになったときに、それが違憲だという訴訟がおこりまして、そこに参加をしていましたときに、なるべくそういう動きがあるということをいろいろなところに伝えましょうというので、ここのトミさんにも聞いてもらおうと参加したのが最初です。カンボジアから自衛隊を引き上げて下さいというのが最高裁の段階で、何か知りませんけれど、私一人の本人訴訟になってしまったんです。それはどうしてかというと、もうゴラン高原にも常駐するようになっちゃったし・・、あちこちでどんどんどんどん訴訟団が次々に出てくることに対応しなきゃいけないというので、もう負けるってわかっているから、カンボジアはもう高裁でやめようというか、正直なところ、引き受け手がなくなったんです、弁護団の。で、本人訴訟ならできるっていうんで、なんで私がそれをやってしまったかというと、カンボジアに行ったときに、たまたま「ボランティアだからできること」という本を書いた方が、その印税でカンボジアに小学校を作る運動をしている場面に出くわしたんですね。そこへ行って話しているうちに、私は最高裁まで行ってやるつもりだと口を滑らしてしまったんです。言った以上は最後までと思っていたもんですから。で、その方は選挙ボランティアとしてカンボジアに入ったぐらいですから、自衛隊には賛成だったんですね。ただ私はおかしいと思うと言ってしまった手前、やらざるを得ないと言いますか、で、案の定、その大阪とか福岡とか、全部統一してやっていたのに、判決文はたった数行で、訴えの利益はないという、要するにカンボジアの場合は自衛隊を引き上げて終わってしまっていると、そういうことだったんですね。憲法論議で却下じゃないんです、訴えの利益がないということでなんです。私は最高裁というものに愛想をつかして、そういう運動に関わるのは一切やめようと心に決めたんですね。そしたら名古屋高裁で初めて違憲判決がでましたよね、イラクで自衛隊機が運用されているのは違憲であると。なんだ私は早まったかと、思ったんですけれども、あそこまでねばった人がいたからああいう判決が出たんで、今後もねばれば、高裁の段階では出るかもしれない。そうすれば少なくとも、あんまり大手をふって海外に出ることは、控えられるかもしれない。まあやってみなければわかりませんけど、そういう感想を持ちました。それで今日、みなさまにお見せしたいのは、これ(三角の小旗)、今日持ってきたんですよ。これは、細田さんが、まだトミさんがご存命の時に作りますからといって、作ったんですよ。で、私、国会に持って行くつもりで、一度も持って行ったことないんですよ。実に忘れん坊で、当日になると、ケロッと忘れてしまうんですよ。でも今度は、まだ日が明るいうちなので、今日は持ってまいりました。

西川
 大阪から来ましたんで、遅くなってしまいました。さっき着きました。あまりしゃべるべき言葉がないんで、ただ、ここに6.15で来ることによって、自分が、歴史の中である、いまこの瞬間にあって、人と関わっていることを確かめる原点として出発するために、ここに来て、また新たに自分で考えながら生きていきたいと思います。

椎野
  神奈川県の川崎から参りました椎野和枝と申します。もう先ほどのいろんな運動をなさってきた方々のお話を伺っておりますと、私が転勤者で、どの会に入ってみなさんと行動できるかということを常に考えながら、色々なところをさまよって来てたものですので、こういうふうに歴代の運動の歴史を語る人が居られるところに来ますと、本当に身の引き締まる思いがいたします。ここでまた身を正すと云いますか、そういうことを一年に一回出席させていただくときには、自分の身に課しているような気がします。ちょっとこの5月に行動しましたことをご報告いたします。2005年、思想の科学のシンポジウムに小田実さんがパネラーとして来られたときに、また「市民の意見30の会・東京」主催で憲法のことをお話なさった際に「僕はこういうふうに東京によく来ているんだから、君たちも芦屋の集会に来て下さい、関西に来て下さい」と呼びかけられ、それに応じて私は、芦屋の小田さんのグループに参加しました。「市民の意見30・関西」の会です。その小田さんが去年(2007年7月)亡くなられました。本当は、その年の秋小田さん自身が果たされるはずだったドイツの市民の人たちとの「日独平和フォーラム結成20周年記念」交流会に、小田夫人の玄順恵さん、娘さんのならさんと、会員の総勢16人で、この5月に行くということになりました。私も参加いたしました。その日独の市民の交流会で、感激する場面がいくつかございましたことをみなさんにぜひお伝えしたい。向こうでは市民との交流の集会を何回か持ちました。「ベルリン・9条の会」で、ドイツの人から5月に日本の幕張の集会にに行ってきましたという発言を聞きました時、まさに“世界の憲法九条”になっていると感激しました。向こうの市民の集会は教会の集会所で開かれ、ちょうどこれくらいの人数でした。幕張のことを言う中高年の人は日本に何回か来ている様子でした。そこは中高年の市民が多かったんですけれども、その後訪れたハレでは、大学生の平和運動をしている青年たちとも出会って話しました。市民団体が入っている「改革の家」というところでは、NPOで青年達と市民がずっと活動しているという人たちのミーティングにも参加しました。そこで、若い人たちが、私たちがいつも見慣れているあのピースの七色の大きな旗など示し、非暴力で社会は変えられるの精神でいること、この声なき声があるように、みんなで戦争反対デモ、講演会、ワークショップを開いている方法論など自分たちの日常の活動を語ってくれました。本当に勢いがありました。ドイツで兵役拒否をしている青年達を、日本のNPOの人たちが受け入れているという現実も、向こうに行って私は学びました。夜、寝られないくらいの日々さえありました。今回のドイツへの旅のプランは、幕張にも参画し、大阪での世界の9条の会でも活躍していた、阪大の木戸衛一さんによるもので、「ドイツ抵抗運動記念館」、修道院跡のブライテナウ強制収容所など、数々の施設の見学の体験を私たちに与えてくださいました。ドイツは国が戦争に関する資料館をまともに向き合って作っているのを強く感じました。私たち昼は見学、夕方から夜は集会で意見を交換しながら、小田さんは亡くなられたけれども、その志を日独の市民の互いが今回の交流で、あらたに深めたのではないかということをお伝えしたいと思います。

柳下
 すいません。この会場が5時までなので、手短にお願いします。

北村
 北村三津子です。国会南門にいきましょう。

丸山
 丸山と申します。事実婚で夫妻別姓運動をやっています。今年還暦を迎える全共闘世代です。2年後の2010年は、樺さんが亡くなってから50年になるので、安保はいらない半世紀の声なき声の会ということで、こういう集会、集いを開きたいと思いますので問題提起します。それはなぜかというと、ここに集まって語るということだけじゃなくて、樺さんは行動を起こしたので、南門で亡くなっていたんですね。ですから今日、そこに掲げてあるような、横断幕をもって、半世紀にあたる2010年にはデモをしたいと思います。

柳下
 どうもありがとうございました。すいませんが、行かれる人はもう国会の方に行って下さい。
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2009年03月09日

1985年6.15 その2

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