2009年06月22日

国会南門前は土砂降り

今年の「6.15集会」は、月曜日の夜ということもあって
参加者は50名弱とやや少なかったのは残念でした。
それでも初めて参加された方が2名おられたのは心強い
かぎりです。また、しばらくお顔が見られな買った方々も
何人か参加されていました。
残念だったのは、NHKでお元気な姿を拝見でき、
この集会に毎年参加いただいていた、鶴見俊輔
さんが体調が優れないため、「メッセージ」での参加に
なったことです。「メッセージ」のなかで、今年の4月に
亡くなった、上坂冬子さんが思想の科学を「職場の
群像」によって得た新人賞の賞金が、「声なき声の会」
の基金となったことが述べられています。
集会の写真は大木晴子さんのホームページの「大雨の
国会南通用門前に
」たくさん
掲載されていますので、そちらでご覧ください。
鶴見さんのメッセージ.pdf
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2009年06月14日

どうやら6月15日の東京地方は雨が降らないようです

天気予報によると、今年もどうやら雨は降らないようです。
なお、当日「集会」には参加できないが、「樺さんへの献花」
には参加できる方は、午後9時ころ(多少遅れるかもしれ
ませんが)に国会南門前においでください。
下の写真は昨年の国会南門前で撮影したものです。
撮影者は丸山新男です。
スキャン0001.jpg
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2009年05月23日

二〇〇八年6.15集会

これまで三回に分けて、掲載してきました、二〇〇八年の6.15集会
の様子をまとめました。これをもとに、「声なき声のたより」
一〇四号をつくります。二〇〇九年の6.15集会の会場でお渡し
できると思います。
二〇〇八集会.pdf
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2009年04月12日

2009年の6.15集会のお知らせ

2009年の6.15集会のお知らせ
日時 6月15日(月曜日) 午後6時より午後8時45分まで
場所 豊島区勤労福祉会館 4階 第三会議室・第四会議室
   集会終了後 国会南門前にて樺美智子さんに献花します

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1989年6月15日
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2009年04月02日

NHK ETV特集 鶴見俊輔 〜戦後日本 人民の記憶〜

NHK ETV特集 鶴見俊輔 〜戦後日本 人民の記憶〜
放送日 2009年4月12日(日)22時から23時半 NHK教育テレビ

皆さん是非ごらんください!!

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80年6.15
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2009年03月17日

2008年「6.15集会」最終

2008.6.15集会  続き その3

吉川さんに続いて

黒川
黒川創です。僕は1961年の6月15日が誕生日なので、今日で47歳になったんですけれども、自動的に樺さんの48年目のご命日なんですが、もうあと2年で50周年ということなんですが、自分の少年時代を考えますと50年というのは天文学的な数字で、自分が50年後って、生きているとは思えなかったし、でもこの年齢になると結構50年なんてそばなんだなと感じる気持ちの方が強くて、それは自分が結構いい年になったせいもあるんでしょうが、もう一つは周囲ににいらっしゃる方が48年目にいらっしゃった方が結構そのままお元気で・・。というのは、あんまり深く考えているわけではないのですが、人の寿命の延びというのは、一種の思想史的な変化を孕んでいるような感じがします。例えば、明治の方でも50年後の証言を残すということで、話しを聞きにいったりするといろいろ話して下さるということはあったでしょうが、今、48年前の課長さんだった方が、まだ身体を運んで、ここにいらして、国会の南門まで行かれるわけですよ。自分の体を動かせるという、それは後期高齢者の保険の問題等々はあるんですが、実際に肉体的な条件ということが、そういう問題さえも生むぐらいの延びがあると言うことは、大変なことだと思うんです。というのは、よく以前から戦争経験の継承みたいな言葉が・・、自由主義的な集まりの中からよく言われましたけど、結構それは眉唾というか、自分の気持ちにピタッと来ないというか、自分の経験じゃないものは継承できるかというと、そうとう怪しい、怪しむにいたる余地があると思うんですよ。むしろ50年かけて一人の人間が、自分の考えを変えたり、読み直したり、考え直したりしながら50年後もある場所に身体を動かして行くと言うことは、相当、同じ事をやっていると言うことではなく、意味の読みかえとかと言うことを含めて、自分の経験の継承なわけですよね。あるいはそれよりずっと年の若い僕とか、僕よりずっと下、子どもくらいの世代の方も今日はお見えになっているわけですけども、一緒にその人たちがパッチワークのように、立ち混じるというか、そこでお話を伺ったり、あるいは議論したり、じっと見てたりするということが出来るというのは、継承しているんではなくて、また新しい、僕なら僕、若い方なら若い方自身の経験の経験としてあるわけで、そういうふうにお元気で長生きして、その人たちにとっても経験の更新であったり、あるいはその人達と立ち混じることで一人一人の新しい経験を生んだりするっていう条件は、かなりこの時代ならこの時代で変わってきていることがあるように、感じを、あの、考えることが、この頃多いなと思っています。ちょっと我田引水なんですけど、我々京都で「編集グループSure」っていう小さい出版の、自分たちのプライベートスペースというか、手作業で本を作って、郵便でお送りするというような、出版をしていまして、そこで鶴見さんにも当初からお知恵をお借りしてやっているんですが、そこでは50年どころじゃなくて、鶴見さんがもう70年前に、東大ならぬアメリカの大学でプラグマティズムを学ばれた頃の経験というか、勉強をもう一度解釈し直すと、どういうことになりますかというお話を1年くらいかけて伺った記録が、この「たまたまこの世界で生まれて」という本なんですけれども、こういう本にしております。吉川さんにならって宣伝になっていますが、これは2300円の税サービスということで、何冊かお持ちしたんですけれども、あと鶴見さんに企画をたてていただいて、何人かの方に座談をして頂いているんです。我々よりも若いメンバーも入るような形で鶴見さんと山田慶兒さんという科学史家の方が、大変面白い話しをして下さいまして「鶴見俊輔と考える」という全五巻のシリーズなんですが、これが第一巻目で、第二巻目は柳瀬睦男さんという上智の学長もされた物理学者なんですけれども、カソリックの神父さんで、ある意味では先ほどから話されている学生運動とは違う立場を持たれた、もともとはリベラルな方なんですが、学生運動が取り留めもなくなって仕方なく、むしろ機動隊を入れる決断をされた方ですね、副学長という立場で。それを含めて科学と信仰の間というテーマで鶴見さんとお話下さってまして、これは2つ1200円で、何冊か今日持ってきてみましたので、ご興味のある方は、お声をかけて下さり、是非読んで頂きたいなと思います。という宣伝の方にいってしまいました。失礼します。

瀧口
 私も「編集グループSure」で本を作っています。瀧口と申します。声なき声の会には、初めて今日来たんですけど、たくさんの方がいらしてちょっとビックリしました。私の母がアイヌで、父は山梨県人なんですけど、そういうこともあって、私は赤ちゃんの時から、家の母が、社会運動とか、その頃よくあった地域民衆史運動というのかな、そういう講習会に出かけたりしていて、運動というか、社会を明るくする運動に私はよく、子どもの時、連れていかれていたんですけど、私の記憶によると、そう言うところにいくと、話し合うと言うよりも、なんか偉い先生が今日来ているかどうかとか、握手をしあっているおじさん達とか、そういう記憶があって、ずっとアレルギーみないなものを持っていたんですけれども、Sureで本を作るようになって、鶴見さんのお話を伺ったりとか、その流れで九条の会にいったり、べ平連の会にいったりしているうちに、運動にもいろいろあるし、人もいろいろいるんだなということが分かって・・、運動に対する疑いみたいなものがあって・・、今、アイヌの若い子立ちはラップで、アイヌのことを歌ったりとか、踊りでいろいろ表現したりとか、私もがんばって欲しいと思うんですけれど・・、そのアイヌの若い人たち対しても私は疑いを持っていて・・、疑いながらも参加するっていうんでもいいかなと思って参加しました。今日は一応、念のためSureの本もこんなに持ってきたので、よろしければ声をかけて下さい。

鶴見
 杉並からまいりました鶴見といいます。2003年に一度ここに伺ったことがあって、それ以来5年振りに来ました。記録のために申し上げておきますと、2003年にはこの形ではなくて、普通に机が縦に並んでいて、普通のセミナー室と変わらない形だったんですが、断然この配置の方がいいなあと思っています。たまたま20代前半の学生と話すことが多いんですけれども、私としては、彼、彼女らから荒削りでもいいから、青臭い、堅実な話し、意見というものを聞きたいんですけれども、最近の若い人って擦れてきていて、なかなかそういう話しを聞けないんですね。私の聞き方が悪いのか、もう少し時間をかけて聞く必要はあると思っているんですけれども、この場所に参加してみて、いい意味での青臭さ、あるいは堅実な話しというものが、みなさまの年齢とは別に、良質な部分が青臭い形で残っていると、ずっと私感じています。そこから翻ってみますといい意味での青臭さというのは年齢とは別なんだなということを考えております。それを運動という形態でなくても、個という部分でもいいから、これからも言い続けていけたらいいなと思っております。

久保田
 足立区の北千住からまいりました久保田と申します。週刊金曜日の「市民運動掲示板」にこの会のことが載っておりまして、それをみて参りました。全くこの会のことは存じておりませんでした。大変な席に座ってしまったなと後悔しております。亡くなった方の亡くなった意味というものは生きている方にあるのだと思います。今日は、樺さんの亡くなったということをどのように、その志というか、そういうものを受け止めて、その志を、今日の自分の現実の中に、どのように位置づけておられるのかということを学びたくて参りました。この話し合いのシステムを見ましても、この会の主旨、あるいはなさろうとしていることが感じられます。私自身は、今、最大の問題として憲法九条を守っていきたいということにかけております。66%が改悪反対、22%が改悪をやむを得ずとしているのでしょうか、支持しているということでしょうか、朝日新聞の先月の発表でありましてけれども、だけどこの数字は変わるし、すぐに後退するし、非常に可変なものだと思います。1年前までは逆だったわけですから・・。この22%がゼロになるまで、変えるの賛成という声が無くなるまで、いろんな形で、いろんな所で頑張っていきたいと思います。護憲というとネガティブな感じがするんですけれども、「国際公約」としての憲法九条をいろんな形で、世界に発信することによって、できれば世界が、各国が九条を憲法にするということがどのくらい現実性のあるものか分からないですが、がんばっていきたいなと思います。守るということ、最大の守りというのは、攻めなんじゃないかと思います。だから変えるのを阻止するのでなく、それをもって世界に発信していくことが大事なんじゃないかと今、考えております。

青柳
 青柳です。埼玉県の狭山市から来ました。60年安保の頃はデモの渦の端っこにいたりして、その後もべ平連運動の中にもいたことがあります。朝のNHKラジオの6時50分から「今日は何の日」というコーナーがあるんですよね。今日は耳を澄まして聞いていたんですが、60年安保のことについては一言も語ってないんですよ。2〜3年前までは、60年安保のことも、樺美智子さんの死のことも、話したことが聞いたことがあったんですが、(会場から「今日やっていましたよ」との声)・・。今日やっていた?。あっ、じゃあ、聞き違いです、すいません。それはよかった、ホッとしました。会長が替わったんで、NHKはそこまで統制したかなと怖れていたんですが・・。安倍内閣が倒れて、この1年ある程度精神衛生がいいんですね。ちょっとですけど。それが最大の罪を犯したこと、許せないことは、教育基本法を「改正」したことですね。これが教育現場にどれほど大きな悪影響を及ぼしてくるかということを怖れているんです。相手は、長い時間をかけて国民を作り替えていくということを狙っているわけで、一時的に新聞の世論調査なんかで、護憲派とか、憲法九条改悪反対とかの勢力が大きくなったとしても、次の次の世代をねらって、教育現場を若い世代から締め上げてくる、頭の中を改造してくるということに、注目しておく必要があるんじゃないかと思うんですね。私にとって、ここに来る意味というのは、私自身がどこまでブレているか、あるいは流されてしまっているかを、再点検するという意味合いでみなさまの話を、貴重な話しを伺っております。年をとると守りの生活、姿勢が多くなるんですが、ささやかなことでやっていることは、親がもうだいぶ高齢で、88歳で、ちょっと認知症も始まっているんで、どうしても郷里に帰って介護の一端を担わなくてはならないってことで、月一回、一週間から十日くらい、新潟県の長岡、田中角栄の旧地盤だったところで、越山会の強いところです、ここに帰って、そこに私の仲間達がいるんですね。そういう生活をしている内に、ただ酒を飲んで世間話をしているだけじゃつまらないということで、ちょっと呼びかけたんです、憲法自身を呼んでみないかと。そして乗り気になった者が4〜5人出てきて、そして昨年一年間かけて、日本国憲法全文1条から最後まで読みました。そしていろいろな議論をして、そしたら友人が英文のものもあるよということで、こんどはそれに挑戦してみようということになって、いまみんなで四苦八苦しながら、単語をひいて読んでいます。内閣・・・あのー、長くなるので、これで失礼します。 

小形
 神奈川県から来ました小形と申します。平和の問題を考える中でこの会にも参加しています。ここ何年か連続して参加しています。最近平和の問題を考えるときに何が大切かということを漠然と考えたりしていたんですが、例えば15年戦争の時に亡くなった方々の文章、どういう具合に亡くなっていってかなどという文章をみたりすると、この人たちも私と同じように肉体をもって暮らして、だけども誰かのために自分の人生を終わりにさせられたと思うんですね。で、そういう終わりにした人たちに対する怒りとかは、あるわけですけど、亡くなったそういう方たち私と同じように血が流れていて、肉体があって、そういうところから考えをスタートすべきかなと思います。抽象的な人間というのはいないわけで、みな感情はあるし、血は流れているし・・、と言うところですね。だから私にとっては、会ったことも見たこともない人ですが、感情豊かで感覚的なものを持っている人たちだと思えます。そこからスタートして理屈としての平和の方に行くべくではないか、と感じています。だからスターラインがどこにあるか、イデオロギーの平和からスタートすると、長続きはしないような気がするんですね。そんなことを少しづつ考えながら、平和の問題を考えようと思っています。 

田中
 東京の田中と申します。今日この会に出席させて頂いたのは、和歌山の奥の方で本多さんがいろいろとご活躍されていると、また十数年ぶりに、本多さんと苦楽をともにされている尾家さん、この方の翻訳の本と本多さんの三冊の本を今年になって頂戴いたしまして、それを読みまして、是非本多さんにもお目にかかって、いろいろお話を伺いたい、ということが第一の目的で参加させていただきました。ここでたくさんの方々から、古いお話しから最近のお話まで、いろいろな形で、それぞれの所で運動をされている方たちのお話を伺って、私のこれからの人生の糧になることもあろうかと思って拝聴しています。特に私は、平和の問題というのは最大の重要な問題ですし、きわめて軍事的な行動がさかんに行われている状況の中で、最大の課題だと思いますが、同時に日常の命と生活を守るという問題ですね、これは一緒になっていく大事な問題と思っております。みなさんご覧になった方もいると思いますが、マイケルムーアの「シッコ」という、だいたい医療関係を中心にした映画が上映されて、ブッシュ・・、一億円の罰金を支払わされたそうでうけども、この中ではカナダを始めとして、もちろんアメリカが中心ですけども、アメリカの医療の実態とカナダ、イギリス、フランス、ヨーロッパの医療がどういうものであるのかということ、最後にキューバが出てくるわけですけれども、いわゆるヨーロッパの民主主義の中に育った人を代言する医療の問題が非常に詳しくのっているわけですが、それに対比してアメリカがどんな悲惨な状態であるかということが出ているわけですけれど、そういうものを見まして、今の日本で行われようとしている、まさに大量の姥捨て山、というのは私は正しくないだろうと思いますが、今の政権による大量の殺戮行為であると、そういうところまで思い詰めているわけであります。それは私自身の家族も問題も含めまして、周辺に住んでいるの80歳前後、あるいは80歳以上の方々がどんな悲惨な状況にんばっているか、それがますますひどくなって毎年二千二百億円を削ってですね、すすめていこうということがはっきりしているわけですけれども、あるいは食の問題、年金が少ないと、どうやって食べていくかという問題を含めまして、今の日本は大変な問題にぶつかっているとそういうふうなことにあわせて軍事的な、特にアメリカの要請によって、軍事行動を中東まで広げていこうということについて、大変な問題が日本の私たち国民に突きつけられているんじゃないか、私はベトナム戦争のハノイのトンキンワン事件の前に、使節団の人たちとハノイに行っています。現在に至るまでベトナムとの関わりを持っているわけですけれども、あれはまったく嘘であったと、これはイラクの問題と同じなわけですけれども、そこにどれだけの犠牲者が出ているのかそれに日本が追随をしている、そういうふうな問題について私たちはどういうふうに考えたらいいだろうか。60年安保の話しが出ましたけれど、ああいう大きな高揚の時期があったわけです。最近「光州5・15」という映画が、小さな映画館でやっているわけですが、光州の市民の人たちがチョンドファンの軍事行動に対して反対をしたのか、あれから大分時間が経ちましたけど、民衆の心の中に残っていて、アメリカが押しつける牛肉の問題で百万の人たちを動員できるという今日の状況ですね、こういうことは私たちがもっと真剣に考えなくちゃいかんことだと、また私たちも力があると、先ほどは本多さんのほうから世界九条の会が大変な盛会であったとご報告がありましたが、そうことを聞くに付けそう思いますけど、今日はどちらかというとみなさまの話を良く聞くということで伺ったわけであります。どうも失礼いたしました。

金井
 金井です。あのー先月、5月11日に現代企画室の太田昌国さんという人が、今年・・、ちょっと補聴器はずさないと、自分の声が響いて来ちゃっておかしな具合なんで、聞こえないんですよほとんど、(鶴見さん「女優じゃないですか」)、いやーだから鶴見さんに、女優にもピンからキリまであって、さっきの詩の中じゃないけれども、私はやっぱり、芝居を昔やっていたから・・、鶴見さんがいう女優って言うのはものずごく、ある批判が入っているから、あまりきちんと受け取らない方がいいと思うんですけれども・・。太田昌国さんが今年キューバ学校というものを年三回やるというもんで、その初回に、キューバ危機のときに絵描きさんで行っていた富山妙子さんと太田昌国さんのキューバ、まあよもやま話し、それと私に岩田弘の「グァンタナモ」の朗読をやってくれないかと、それが2月に話しがきたんです。私は昔、芝居をやっていたけれども、朗読って言うのは成功したためしがなかったんですよ。もういっぱい朗読をしてきた、岩田さんの「長い塀」もやったことがあるし、最後の朗読って言うのは42年前に、ボルヘルトの散文詩、あの「戸口の外」を書いた、24歳で死んだドイツの作家ですよね。そのボルヘルトの散文詩を太田省吾、この間亡くなったけれども、その太田省吾の演出で5人の女優がやったんですよね。で、それが最後で詩の朗読、42年前。ホントに詩の朗読というのは成功したことがないんですよ。吉本さんの廃人の歌とか、ロルカとか、芝居屋って言うのは、舞台がオフの時は割と朗読の会というのをやるんですよ、訓練のために。で、だいたい失敗する、できない、というのはやはり、韻にのせちゃうとすっぽ抜けて行っちゃうんですよね、中が。で、もう朗読というのはやるまいと思っていたんだけれども、まあ一人芝居で20年前にやって、とにかく20年間、全然人の目の前にさらしたことが無かった我が身を。それはちょっと待ってもらったわけね、お返事するまで。だけど岩田さんの「グァンタナモ」の最後の第四章の最初の言葉っていうのは、「グァンタナモ我々の夢のかけら」から始まるんです。これは4つのパートになっていて「グァンタナモ我々の夢のかけら」でその次もあって、次が「グァンタナモ夢のかけら」になるんです。で最後が「かけら」だけになるんです。で、その最後の「かけら」のところで彼は、「我々に、我々を、君らにつないでくれ」っていう詩があるわけなんです。その次に「君らを我々にくれ」っていうんですよ。で、最後は「遺言によって傷だらけのクローム鉄鋼のように」っていうので終わるんだけれど、私はこの何行かを立って、最後まで伝えられるかどうか、若者に。それから、これは自信がなかったんですね、自分の中にそれだけの力があるかどうか。だけどこれは私の最後、75歳の正念場であると、私はこれで、人の前で何かを演ずることは終わるだろうと、でこれは私への挑戦であると思って、太田さんにやるって言ったんですよ。それで自信がないから、昔の、60年代に一緒にやっていた自由劇場の演出家だった水元っていうのに、一緒に見てもらいながら、二人でその「グァンタナモ」を作り上げたんだけれど、出来たかどうかは、とにかく最後まで立っていられたというぐらいのことなんだけれど・・。その当時、あおのキューバ危機の時、アメリカが海上を封鎖した時に、フランスのアニア・フランコというのが、キューバに行っていて、それで「キューバの祭り」を書いていて、私は、それを30ぐらいの時に読んでいたんですね。で、それをもう一度読みかえしてみて、今回。で、その時にフランスの女性だから、熱狂とつぶさに見るクールさというのが今でも生きているんですよね。で、私が、丁度それを読んだ頃というのは、60年安保の2〜3年後ですよね。で、まだ私の中に何かが残っている。60年安保。毎日出かけていった自分の情熱というのが、それが重なって生きているって言う感じ。アニア・フランコの「キューバの祭り」は。で、よくぞ太田さんが私に呼びかけてくれた。太田さんと私では、だいぶ違うんだけれど。太田さんが私に「グァンタナモ」を与えてくれたことに、すごく感謝しているんですけれども。私は、その力がまだ、まあ自分への挑戦ですから、少し残っているというふうに、私は自分の中に、そう思ったんです。で、立ってられた、ひっくり返らなかった、とにかく。そんなようなことが先月ありました。どうも。

余川
 思想の科学社の余川です。今日は、あの、さっきラジオで言ってましたよって、いったんですけど、今日も本当は、仕事で押しつぶされておりまして、鶴見さんの顔をまともに見れないなと思って、本当は来たくなかったんです。それは余計な話しですけれども、すいません、ちょっと思想の科学の宣伝をさせて頂きますと、60年分のダイジェストというものを作っています。これは多分、日本の出版の中では類を見ないものだと思っています。量といい、巾といい、理念といい、とにかくそれは、このままいくとちゃんと出ますので、出たときにはどこかで必ず見て下さい。それがありまして・・、それから今日は日曜日だというので、なぜか思想の科学社に声なき声の会の集会がありますかという電話がたくさん入りました。いままでこんなことはなかったことなので、えっとか思って、ますます私は行くのがつらいなと思っていたんですけど、朝のラジオで、今日は樺美智子さんが亡くなった日ですと、ちゃんと言いました、NHKのラジオで。それで、ああ行こうと思って来ました。で、私は日本だけじゃなくて世界中がなんか、パレスチナとかイラクとか見ているとうんざりしちゃう感じになってて、若者には抗ガンガン?が流行っているとか、それで環境ホルモンで精子ができないという話しを聞くと、ああ人間はこのまま滅びるとかって、すぐ突っ走って考えるぐらいの人なので、なんか絶望的な感じに最近はなっています。でも、声なき声のここに来ると違うんですよね。ここに来る人たちというのはずーっと昔からそうなんですけど、やっぱすごい人たちだと思っています。1年間ずーっと、こう、なんて言うのかな、維持していけるんですよね、その生活を。そういうのっていうのは、いつも背筋がピンと、ここに来るとなります。それだけです、すいません。あっ、もう一つだけ、すいません。さっき鶴見さんが褒めて下さいました羽生康二さんの「昭和詩史の試み」っていうんですけど、それは思想の科学社から出させてもらいました。よろしくお願いします。

道場
 初めて参加しました、道場親信と申します。僕は1967年生まれなんですけれども、1960年の6月15日には、国会の前にいなかったんですけれども、1992年の6月15日には国会の前にいました。それは何であるかというと、PKO協力法が6月15日に通過したんですけれども、そのデモに、一ヶ月ちょっとの間ですけど毎日国会のデモに行っていました。それが個人的な60年安保というとなんですけれども、自分自身が戦後の日本というのはある限界を持っていて、それは突破されないだろうという、どちらかというと安心感を持っていたんですけれども、それが実際には、どんどん成長し大きくなってしまった自衛隊をついに海外に出すという、そういう事態に立ち至って、いよいよ出てしまうという危機感の中で、一ヶ月くらい国会に通ったというのがきっかけでありました。で、結局、そこで法案が通ってしまって、自分が楽観していた戦後というのは何だったんだとか、戦後の平和主義というのは自衛隊を出す段階に至ってしまった、これはどういう事態だろうかと考えて、それ以降戦後史だとか、戦後の平和運動史だとかを勉強するようになりました。それで、その少し後くらいでしょうか、新聞を見ましたところ、かつて本か何かでちらっと見たことのある声なき声の会が、毎年、まさにその6月15日に国会に集まっているという新聞記事を見まして、すごく驚いたというか、こういう会がまだ続いているのかと感心をもったことがあったんですけれども、その後も時々新聞に報道されているものですから、今年こそ行こうと思いながら、毎年6月15日で、おそらく7分の1の確率でしか日曜にあたらないものですから、ウィークデーとあたってしまうとどうしても、仕事とぶつかっちゃったりとかですね、いろんなことで参加することができませんでした。過去にも2回くらい献花にはせめて駆けつけたいと思って、仕事がおわってからですね、国会通用門前に行ったことがあったんですけれども、国会を2周回っても人の影が見えなかったりですとか、警官に花をもった人たちが来なかったかと聞いたらですね、来なかったと嘘をつかれたりとかですね、そういう経験をしていて、結局、今日初めてみなさんにお会いすることが出来ました。声なき声の旗も見ることができて、とても感激しているですけれども、この会の持っている意味とかは、すでにみなさんいろんな形で語られて来ていたんですけれども、何て言うんでしょうか、1960年というのは、本当にもはや48年も前のことで、そこから持続されている様々な人のつながりと志のつながりというものが、持っている重みというものをどういうふうに伝えたらいいのかわからないんですけれども、少なくともここへ来るとその一端に触れることができるという、そう言う場所なのかなというふうに思いました。私自身は運動の場所に関わる、何か自分なりの志をもって関わるというときに、最初の出発点は、先ほどイデオロギーから出発することはできないと発言された方がいましたけれど、私自身は、何であれ、出発してもですね、それが持続できない時というのがあるだろうと思いますから、逆にそういうときに、人が、どういう出発点をもう一度さがすのかとか、どういうふうに自分自身のあり方というものを考えていくのか、ということが、その後を規定してくると思っていまして、おそらく92年の自分というのは、非常に楽観的であり、戦後というものをよく理解しない、そういう青年であったと思いますけれども、そこから今日、もう少し戦後というものを考えてみるような、第一段階の転向、まだ本格的な転向ではありませんけれど、を遂げたと言う意味で、この16年を、6月15日という日を一つのつなぎ目として、これからも考えていきたいと思っています。終わります。

湯浅
 横須賀から来ました湯浅と申します。考えてみますと、70年の時は札幌におりまして、札幌べ平連の尻尾についておりました。それでこちらに来まして何年になりますか、この会に、やはり尻尾についております。たぶんこのまま尻尾について、持続だけはしていこうかなと考えております。


 埼玉から来ました東と申します。3回目です。鶴見先生と吉川さんの「市民の意見30」に入れさせてもらって、ここに導かれたという次第です。ある新聞で、画家がイラクの死者を数字だけに留めておけなくなった。その人を、一体一体を描きたくなったって、人間の形を一人一人を書いていく作業を始めているという紹介がありまして、何万人、数字にすればイラクの死者は、何万人といういろいろな説があるんでしょうけれど・・、アメリカの死者が四千を越えて、9.11を越えた死者と、イラクのあれ以来の死者が10万前後って言っていいんでしょう、あるいは7〜8万とか、相当な巾があったりして、その一人一人の死者を、数字で何万というふうに置き換えて見過ごす事が出来なくなったという一人の芸術家のモチベーションというのは、ちょっと教えられる思いとその死者に責任がある日本のいままでの政治のあり方、あるいは国民のあり方ということを考えております。朝鮮戦争でもベトナム戦争でも相当な死者を傍らに見ながら、日本は特需で今の繁栄を得ていた、その死者に対する思いとか、自分たちがそういう政府を抱いているという思いということに関して、私は負い目をもって、ここに参加している一人なんですけれども、吉川さんの話にあるように、最高裁は絶対許す・・、聞かない、まあ、横浜事件再審の運動に関わっているんですけれども、あれ以来、司法はなんら変わっていないと、裁判官が自ら、書類を全部焼き捨てて、その書類がないから再審は無理だというような論理とか、そういう日本の動きをそのままにしているのは、日米安保の分水嶺じゃないですけれど、雨がどっち側に流れるかということで、ずいぶん、こっち側に流れないのかという無力感があるわけですけれども、九条で本当に守ってきたといいながら日本は戦争をしてきたという、姜さんという在日の先生が話されていたように、長くなってすいません、自衛隊を解体とか、対談の中で言ったりしていますよね。それは、雑談の中で言ったのじゃなくて、自衛隊を解体して、今ずごい地球上の災害の人たちに対する救援隊に変換できれば、スマトラとかすごい死者が出ましたし、もう需要は必ずあると、戦争をしている暇はないんだと、今、九条に潮目が変わったのはそういう思いなんじゃないかなと、個人的には感じていて、もうちょっと、そういう思いを伝えられないか、広げられないかなと、そういう思いです。

佐々木
 中野から来ました佐々木と申します。献花には3年前から参加させていただいておりまして、今日は、今年は日曜日ということもありまして、この会から間に合う形になりました。と言いましても、今日も若干遅れての到着になったのですが、私も1961年生まれで、同じ61年生まれの方がいらっしゃるということに、とても心強いなという気持ちをいたしております。出身が岩手なものですから、昨日は実家の母親の安否確認だけはとれたんですけれども、内陸の方の親戚やらの状況が一切つかめないなかったので、それを昼にかけてようやく無事であるということと、被害がさほどのことはなかったと確認できたので、こちらに駆けつけることができたんですけれど。6月15日というと明治29年の三陸大津波の日でもあるわけでして、私たち三陸の人間にしてみれば、その記憶というものがとても大きくて「人民を信ぜずして信じる」ということに繋がるんですけれど、私の郷里は釜石、新日鉄のあった釜石なんですけれど、昔の写真をみるとまるっきり違う町並みが登場するんですね。明治29年に失われるまでの町並み、それから、復興して昭和8年の津波で失われるまでの町並み、それが今度は昭和20年の大空襲で焼かれて、艦砲射撃で千人近い人が死んでしまう・・、その度に、これが同じ街なのかという、それを見極めるのがせいぜい背景の山並みで偲ぶ感じ、というぐらい街がかわっていく。でもその度に、復興してきたんですね。60年当時、私が育った60年代の町の状況みはどうかというと、新日鉄の盛んな時期でありましたから、新日鉄はじめ国鉄の労組も強く、活気があって、事あらば、大人の男たちが、例えば火事だとなれば、消防団の連中がもうわーっと出てきて、猛スピードで走る消防車に飛び乗っていくという、そういう、いざっていうときの大人達はすごいもんだなというようながありましたので、60年当時なんかも組合は、それいくぞとなれば、列車を仕立てて上京するというような、そういう、大人って言うものはすごいもんだな、やるときはやるもんだなと子供ながらに見てきたものですから、東京に行ったら、大木さんのフォークゲリラとかも見ていたものですから、俺は大人になって東京へ行ったら、新宿へ行ってフォークゲリラになって歌おうと思っていたわけ。上京したら一番先に新宿西口に行ったんだけれど、本当に通路になっちゃっていて、本当にここで歌を歌っていたのかななんて、誰か来ないかとずーっと待っていたんです。それでぼんやり自分なりには思想をみがき、詩の心言葉をみがいて
それが平和に繋がれば、としたのが9.11以降に、ガンと殴られたような気持ちで、自分が頑張っている気持ちではダメだ、その時に何をやるか、何をやってきたんだと他人に聞かれて、こうやりましたといえる行動をとってなかったら、これ言い訳も出来ないという気持ちで、焦燥に駆られたような気持ちで、デモに出かけ、その中で大木さんに出会い、新宿西口で立つようになりという形で、今日まで来ているんですけれども・・。それで今日、防災訓練しているのか、津波の訓練でもやっているのかと聞いたら、いや今日は夏祭りで、魚市場で魚焼いていっているらしいよっていうんで、なんか呑気なことやっているなと思って、せいぜい昨日の今日なんだから、防災訓練くらいやってくれよと思うんだけれど。人間というのは忘れちゃうもんなんだな、どんな街を全滅にさせちゃうくらいの災いがあっても忘れちゃうもんなんだな。でもそれを復興していける力もある。またやられておきながら、それでも立ち上がる、それを他の国に攻められ、殺されながらもやって、60年安保の時もそうやって街の人たちも盛り上がった。今はどうか、全然、立ち上がった気概というものがないんじゃないか、でも、絶対ある、人間には絶対それがある、という強い強い確信があって、それに触れたくて、ここにくればやっぱりいるっていうね。最初に言葉を発する人たちがいるはずだ、東京にきたらそれがいるんだという気持ちで来ているので、今日はとても嬉しい気持ちです。

満田
 私は集会とデモが大好きな満田です。よろしくお願いします。今年の東大の五月祭は学生運動のトークをやっていました。それを聞いて、その当時動いていた人の、委員長だか副委員長だか、知りません、もう忘れちゃったんですけど、その人たちが東大の学生達に伝えていて、五月祭だから、いいいことだなと思って、それで家に帰って聞いたら、知らないって言うし、だから私はこういう集会とデモが大好きな満田ということで動いていきたいと思います。以上です。

上原
 上原隆と申します。この会には去年と今日とで2回目です。今年の方が落ち着いて集会に参加できて、いい話が聞けて、なんかとてもいい時間が流れているなって気がします。来年もまた来て、参加していきたいなと思います。よろしくお願いいたします。

西村
 埼玉県入間市から初めて参加しました西村と申します。初めてなんですけれども、声なき声の会は40年ぶりです。私、19歳まで神戸にいたんですけれども、神戸の繁華街で三宮センター街というのがあるんですが、そこの入り口のところで月に一回ビラをまいている人たちがいたんですね。あの君本雅久(「きみもとまさひさ」の漢字?)さんという詩人の方ですとか、あとは文学が大好きなOLの方とか、造船所で働いている労働者の方とか、いろんな人がいたんですが、たくさんはいなかったですね、10人いなかったと思うんですけれども。たぶん高校3年生だったと思うんですけれども、べ平連、当時神戸の場合にはヤングべ平連というのがありましてね、緑のヘルメットをかぶってジグザグデモをしたり、戦闘的だったんですけど、私と同世代かちょっと上の人たちがいたと思うんですけれど、どうもあれは危なそうだから、ちょっとあそこへ行くのは止めておこうと。でもやはりベトナムでたくさんの人たちが殺されていると、しかも当時神戸港には第六突堤というのがあったんですけれど、米軍がそこを使って、ナパーム弾を送り出すような役割を果たしていたようなんですね。ですから、高校生でいろんなことはまだよく分かっていなかったんですけれども、やはり自分が住んでいる神戸港からそういうものが運ばれてたくさんの人が殺されている。黙っていて良いんだろうかという気持ちはすごく強くあったので、声なき声の会の集会に参加して、初めて神戸港にデモに行きました。で、その後、出かけられるときは出かけて、いろんなお話しを聞いたりしたんですけれども、その後、大学に入りまして、声なき声の会とは離れてしまったんですけれども・・。で、個人的なことを申し上げますと、60年安保の時に、樺さんが属した第一次ブンドが社共にかわる新しい労働者の政党、まあ、こうしたことを呼びかけられたことの何十分の一かは、声なき声の会は無党無派なわけですけれども、有党有派で信頼できる存在は、やはりあって欲しいし、あるべきだろうと。で、私の出来ることは本当にささやかですけれども、出勤前にP3Cが入間基地に入ってくるといえば、夜中起きてとりあえず抗議に行くと、ところが向こうもさるもので一日ずらされて、空振りしちゃったんですけれども、そういうことをやったり、あるいはささやかなサークルですけれども、埼玉労働者クラブというグループで、毎週「資本論」を読むとか、そういう活動を細々ですけれどもやっています。40年ぶりなんだなって、なんだかいろいろなことを今日感じさせていただきました。ありがとうございます。

細田
 細田です。1970年にですね、べ平連のデモに参加して、その後声なき声の会に関わって30数年経ちました。このところ毎年、1年が経つのがすごく早いなと感じています。で、この6..15集会は、この一年間にどんなことがあって、どんなことをしてきたのかなと振り返る機会と思って、集会にきています。時間がないのであまりしゃべれませんけれど、そうやって長く続いてきたということは、すごく大事なことだなと思っています。さっき、2003年はこういう会場になっていなかったということが指摘されて、思い出したんですけど、あの時は会場が長くて、最初はこういうふうに作ったんですけど、おかしかったんんで止めたんです。ですから、記憶ですので、いいかげんなところもありますが、こういう形で集会を持つことが主です。それからPKOで6.15の時に国会で出会ったということについてですが、あのとき共同で、声なき声の会とそのPKOのデモの人たちと南門のところで集会をやった記憶があります。本多さんが確かその時に発言をされて、なかなか良い集会ができたなと思っています。そんなところで次の方に回します。

飯岡
 飯岡と申します。今、樺さんの話が盛んにでましたけど、事実、私は彼女が亡くなった時に、学園葬をやりまして、その場にいた人間なんですね。で、その時は全部が研究室ごとに授業をやめて、60年安保の話しをしますということに、どんな頭の固い先生も協力なさったんですね。私がそれからずっとここの会に来ていたんじゃなくて、自衛隊が初めて海外に出るようになったときに、それが違憲だという訴訟がおこりまして、そこに参加をしていましたときに、なるべくそういう動きがあるということをいろいろなところに伝えましょうというので、ここのトミさんにも聞いてもらおうと参加したのが最初です。カンボジアから自衛隊を引き上げて下さいというのが最高裁の段階で、何か知りませんけれど、私一人の本人訴訟になってしまったんです。それはどうしてかというと、もうゴラン高原にも常駐するようになっちゃったし・・、あちこちでどんどんどんどん訴訟団が次々に出てくることに対応しなきゃいけないというので、もう負けるってわかっているから、カンボジアはもう高裁でやめようというか、正直なところ、引き受け手がなくなったんです、弁護団の。で、本人訴訟ならできるっていうんで、なんで私がそれをやってしまったかというと、カンボジアに行ったときに、たまたま「ボランティアだからできること」という本を書いた方が、その印税でカンボジアに小学校を作る運動をしている場面に出くわしたんですね。そこへ行って話しているうちに、私は最高裁まで行ってやるつもりだと口を滑らしてしまったんです。言った以上は最後までと思っていたもんですから。で、その方は選挙ボランティアとしてカンボジアに入ったぐらいですから、自衛隊には賛成だったんですね。ただ私はおかしいと思うと言ってしまった手前、やらざるを得ないと言いますか、で、案の定、その大阪とか福岡とか、全部統一してやっていたのに、判決文はたった数行で、訴えの利益はないという、要するにカンボジアの場合は自衛隊を引き上げて終わってしまっていると、そういうことだったんですね。憲法論議で却下じゃないんです、訴えの利益がないということでなんです。私は最高裁というものに愛想をつかして、そういう運動に関わるのは一切やめようと心に決めたんですね。そしたら名古屋高裁で初めて違憲判決がでましたよね、イラクで自衛隊機が運用されているのは違憲であると。なんだ私は早まったかと、思ったんですけれども、あそこまでねばった人がいたからああいう判決が出たんで、今後もねばれば、高裁の段階では出るかもしれない。そうすれば少なくとも、あんまり大手をふって海外に出ることは、控えられるかもしれない。まあやってみなければわかりませんけど、そういう感想を持ちました。それで今日、みなさまにお見せしたいのは、これ(三角の小旗)、今日持ってきたんですよ。これは、細田さんが、まだトミさんがご存命の時に作りますからといって、作ったんですよ。で、私、国会に持って行くつもりで、一度も持って行ったことないんですよ。実に忘れん坊で、当日になると、ケロッと忘れてしまうんですよ。でも今度は、まだ日が明るいうちなので、今日は持ってまいりました。

西川
 大阪から来ましたんで、遅くなってしまいました。さっき着きました。あまりしゃべるべき言葉がないんで、ただ、ここに6.15で来ることによって、自分が、歴史の中である、いまこの瞬間にあって、人と関わっていることを確かめる原点として出発するために、ここに来て、また新たに自分で考えながら生きていきたいと思います。

椎野
  神奈川県の川崎から参りました椎野和枝と申します。もう先ほどのいろんな運動をなさってきた方々のお話を伺っておりますと、私が転勤者で、どの会に入ってみなさんと行動できるかということを常に考えながら、色々なところをさまよって来てたものですので、こういうふうに歴代の運動の歴史を語る人が居られるところに来ますと、本当に身の引き締まる思いがいたします。ここでまた身を正すと云いますか、そういうことを一年に一回出席させていただくときには、自分の身に課しているような気がします。ちょっとこの5月に行動しましたことをご報告いたします。2005年、思想の科学のシンポジウムに小田実さんがパネラーとして来られたときに、また「市民の意見30の会・東京」主催で憲法のことをお話なさった際に「僕はこういうふうに東京によく来ているんだから、君たちも芦屋の集会に来て下さい、関西に来て下さい」と呼びかけられ、それに応じて私は、芦屋の小田さんのグループに参加しました。「市民の意見30・関西」の会です。その小田さんが去年(2007年7月)亡くなられました。本当は、その年の秋小田さん自身が果たされるはずだったドイツの市民の人たちとの「日独平和フォーラム結成20周年記念」交流会に、小田夫人の玄順恵さん、娘さんのならさんと、会員の総勢16人で、この5月に行くということになりました。私も参加いたしました。その日独の市民の交流会で、感激する場面がいくつかございましたことをみなさんにぜひお伝えしたい。向こうでは市民との交流の集会を何回か持ちました。「ベルリン・9条の会」で、ドイツの人から5月に日本の幕張の集会にに行ってきましたという発言を聞きました時、まさに“世界の憲法九条”になっていると感激しました。向こうの市民の集会は教会の集会所で開かれ、ちょうどこれくらいの人数でした。幕張のことを言う中高年の人は日本に何回か来ている様子でした。そこは中高年の市民が多かったんですけれども、その後訪れたハレでは、大学生の平和運動をしている青年たちとも出会って話しました。市民団体が入っている「改革の家」というところでは、NPOで青年達と市民がずっと活動しているという人たちのミーティングにも参加しました。そこで、若い人たちが、私たちがいつも見慣れているあのピースの七色の大きな旗など示し、非暴力で社会は変えられるの精神でいること、この声なき声があるように、みんなで戦争反対デモ、講演会、ワークショップを開いている方法論など自分たちの日常の活動を語ってくれました。本当に勢いがありました。ドイツで兵役拒否をしている青年達を、日本のNPOの人たちが受け入れているという現実も、向こうに行って私は学びました。夜、寝られないくらいの日々さえありました。今回のドイツへの旅のプランは、幕張にも参画し、大阪での世界の9条の会でも活躍していた、阪大の木戸衛一さんによるもので、「ドイツ抵抗運動記念館」、修道院跡のブライテナウ強制収容所など、数々の施設の見学の体験を私たちに与えてくださいました。ドイツは国が戦争に関する資料館をまともに向き合って作っているのを強く感じました。私たち昼は見学、夕方から夜は集会で意見を交換しながら、小田さんは亡くなられたけれども、その志を日独の市民の互いが今回の交流で、あらたに深めたのではないかということをお伝えしたいと思います。

柳下
 すいません。この会場が5時までなので、手短にお願いします。

北村
 北村三津子です。国会南門にいきましょう。

丸山
 丸山と申します。事実婚で夫妻別姓運動をやっています。今年還暦を迎える全共闘世代です。2年後の2010年は、樺さんが亡くなってから50年になるので、安保はいらない半世紀の声なき声の会ということで、こういう集会、集いを開きたいと思いますので問題提起します。それはなぜかというと、ここに集まって語るということだけじゃなくて、樺さんは行動を起こしたので、南門で亡くなっていたんですね。ですから今日、そこに掲げてあるような、横断幕をもって、半世紀にあたる2010年にはデモをしたいと思います。

柳下
 どうもありがとうございました。すいませんが、行かれる人はもう国会の方に行って下さい。
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2009年03月09日

1985年6.15 その2

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2009年02月24日

2008年の「6.15集会」第二回分

細田さんから第二回分が送られてきました。
訂正・補足(最小限にしてください)があれば、柳下弘壽までお願いします。

2008.6.15集会  続き 

大木さんに続いて

青木
 お花を買ってくる係なので、池袋の駅の中にあるお花やさんが割といいお花を安く売っているので、毎年そこに行くのですけど、そこのお姉さんにお花を買って包んでもらっていたのですが、どうしようかなと思って、実はねって、「6月15日って、樺美智子さんて知ってる?」で聞いたら「知っている」と言うんですね。「日米安保条約って知っている?」って聞くと「知っている」って、で今日はこういう日なのだって言ったら、「ああこの花束はすごい意味があるもなんですね」って言って下さって、ああ若者でも心にそういう事を思ってくれる人がいるんだと、発見できたというか、うれしかったです。花屋のお姉さんですけど、見る人は見ているんだととてもうれしい気持ちできました。先ほど、お名前がわからないんですけど、あちらの方が運動のしっぽについていた方が、結構シコシコと長くやっているんだと言ってましたけど・・、私は実は、先日つれあいを亡くしました。交通事故だったんですけど、あっという間に逝ってしまいましたけど、その彼が・・すいません・・、60安保の時に学生で、樺さんが殺されたとき、その同じ場所にいた人なんですね。運動のしっぽについていた人なんですけど、その話を聞いたのが、私の反戦平和の運動の一番最初の出会いで、それからべ平連のデモのしっぽについたり・・、ずっとしっぽできました。松戸に住んでいるんですけど、松戸で6年目になりましたけど、市民団体、いまは60団体以上、小さな団体ばっかりですけど、今は共産党系の人たちも一緒に入って、それで60何団体が5月3日の集会をやっています。1200人くらいの会場がいつもいっぱいになるんですね。500円の入場料というのも魅力なんですね。とにかくチケットをいっぱい売って、やっています。そういう人たちもみんな運動のしっぽについていた人たちなのかな、と発言をきいて思いました。でも、華やかでなくていいから、小林トミさんの運動もそうでしたけど、地味でもいいから、志を曲げないでやっていくというのが、とても大事だなと、そんな軽い言葉で言っちゃいのかもしれなんですけど、つくづく思っています。今年もみんさんにお会いできてうれしく思っています。ありがとうございました。 

馬場
 マスコミっていうのが益々信用できなくなっているんで・・、久米宏のやっていたニュースステーションが終わりになって、報道ステーションになって全然ダメになったんで、今、CSとかスカパーとかでやっている朝日ニュースターという番組を時々見るという感じなので・・、そこでパックインジャーナルというところで地上波ではなかなか言えないようなことを評論家達がいろいろ言っているということが結構面白いというのがあるんですけれども・・、そういうのに僕がなんで興味を持つようになったのかと言えば、小学校5年生の時に叔父が特攻隊、学徒動員で招集され、出撃寸前に敗戦になり、帰ってきて、全く無気力で仕事をする気もなくなって、カストリ雑誌を読んでいた、それを僕も読んでいて、権力の裏側というのをそういうところで教わったというのが始まりかなと思っています。で、マスコミがどうなっているとか、権力の裏側がどうなっているのかとかを小学校の時から考えてきたつもりであるんで、中学の時にメーデー事件があって、労働者がデモを始めたところを警官が労働者に向けて発砲し、それで戦後の民主主義が終わってしまったような感覚になりました。そういうところから少しずつ続けています。

羽生
 羽生と言います。鎌倉から参加しました。この会には20年以上毎回参加しています。詩を書いているものですから、3年前に憲法九条を守る詩の雑誌というのを始めまして、「いのちの籠」と言うんですけど、1年に3回出しているんで9号になりました。そういうことを細々とやっています。仲間の詩人達に声をかけて出しています。で、私、思ううんですけれども、新聞の世論調査なんか見ていると9条を残したいという人がここ1〜2年っていうか数年増えてきているんじゃないか、読売なんかも9条を残したいという人の数が増えていまして、どうしてなんだろうかと考えまして、九条の会の活動というか、鶴見さん達がおやりになっているんですけれども、その効果というものが微妙にじりじりと全国的に広がっているんじゃないかなって、思うんです。そうじゃなければ、全体の流れから見ていて9条を残したいという声がここまで強くならないんじゃないか。ただ、けっしてそういう世論調査で、9条を残したいと言う人が増えてきていても安心はできないんですけれど、九条の会の力というのがあるんじゃないかと思うんです。私のこの雑誌もその端っこについて細々とやっています。

五味
 東京の足立区に住んでいる五味智英といいます。実は今日はこの会に出てくると言うより和歌山からおいでになった本多さんにお会いするために来ました。本多さんが長いこと老骨にむち打って、戦争出前話を、老骨って言ってもすごく若くいらっしゃって、久しぶりにお会いして、あまりお変わりなのでビックリしたんですけれども、いつも敬服しています。私自身も学生の時、丁度、樺美智子さんが殺されたときに、場所は違いますけれども、入学して、早稲田でしたけども、すぐに安保の反対のデモの中に投げ込まれた形でやってきました。その後、ずっと色々な形でやっていますけれど、たいしたことは別にやっていませんけれど、この所、昨年、夫が亡くなりまして、そのから今年の5月に母が亡くなりまして、ここ何年か少し引っ込んでましたけれど、私はここ数年前から「商社9条の会」というのがありまして、呼びかけ人の形で参加していまして、一周忌も過ぎ、呼びかけ人ではなく世話人の方でやってくれということで、またいろいろなことを新たに始めたいと思っています。なくなった夫もなくなった母も最後まで、いろんな形で地域の運動をやってましたもので、私も、長くはないかも知れないけれど、色んな形で貢献できたらいいなと思っています。一番思うのは、周りの人に憲法9条の意味とか、これをどうしても守らなきゃいけないとか、それから後期高齢者医療の問題とか、みなさんその立場になって初めて、非常に反発の声とか大きくなっていくんですけど、非常にわかりにくいですよね。それを一般の人にどうして広げていったらいいのか、それが一つの課題になっていますけれども・・、今日は、初めて参加しましたので、お話も用意していなくて、こんな形で話しをするのも初めて知ったわけでして・・、どうもつたないお話で失礼しました。

尾家
 和歌山から参りました尾家といいます。図書館で働いています。小さな自治体の図書館なんですけど、去年も合併して状況が悪くなったということを報告していたことをこの「たより」を見て思い出しましてけれど、昨年の6月には私自身が異動の対象になりまして、一人で10年ほどやっていた所から別の館に移りました。それ以降、私のやっていた所は午前中の担当者は1名固定、午後は毎日日替わりで変わるというふうになり、午前と午後でも人が変わるし、午後は日替わりとなって、子どもたちの利用は残念ながらずいぶん減ってしまいました。それから私の住んでいるところは清川村といいまして、住民が1000人くらいなんですけれども、郵政民営化で、とっても小さな特定郵便局が、民営化から部屋の中に仕切りが立てられまして、学校の教室くらいの小さな部屋がさらに仕切られて、郵便の担当の方と貯金の担当の方が別なんですね。全然接触しないようになってしまって、おまけに住まいからすぐ近くのところが集配に加えられたにも関わらず、隣の田辺市という遠いところからガソリンが上がっているにも関わらず集配に来るんです。そうするとちょっと手紙を書きたいときに切手を貼って置いておけば集配に来たときに持って行ってくれたんですけれど、多分お年寄りの人たちは助かっていたんですけど、そういうこともなくなったし、顔ぶれもぜんぜん見たことがないんで声をかけたりと言うこともなくなりました。同じように図書館でも、合併前は隣町の図書館だったもんで、蔵書も知らないし、利用者の方も知らないし、本がモノじゃなしに渡せるようになるには時間がかかりまして・・、今、申し上げた2つの事例から私なりに考えたことは、ものすごい税金を無駄使いして合併した大きなねらいは、人と人との心の繋がりと言うんでしょうか、人と人との横の絆みたいなものをすっと切りたかったんじゃないかと思ったんです。そう考えると私ができるささやかな抵抗というのは、新しい所でも本を通して一人と一人と繋がっていくことかな、なんて思って、新しいところで、始めはみなさん笑顔もなかったんですが、1年経つとそういうお客さんも出来てきましたし、そんなふうにして、この会も来られるときに参加させていただいて、確認というか、一人一人がゆるやかに繋がっているっていうんでしょうか、それぞれのことをなさっているんですが、どこかで気持ちの繋がりがあるというのが、確認できるのがすてきだなと思っています。最後ですけど、この間、韓国でBSEの大々的なデモをやっていましたよね。ああいうのを、本多さんと話していたんですけれども、インターネットなどで連絡し合って、BSEとかだったら政治と言うよりも暮らしに直結した問題だから、日本と韓国とで同時デモとかをして、アメリカに揺さぶりをかけられたら面白いなという話をしていました。

倉田
 秋田市からきました倉田と申します。昨年に引き続いて2回目の参加となります。私が参加している理由は、私は1961年生まれですから、樺さんが亡くなってから1年経っています。現実としてはぜんぜん分からないのですけれども、もし樺さんが生きていたら、普通の一歩はどの方向にどういう風に踏み出すのかなということが知りたくて参加しております。また、ご存知のように東北で昨日地震がありまして、秋田でも震度4の地震でしたが、10数年前に震度6という地震も経験していまして、耐震強度もあがっていて、幸い秋田では3件ほどの簡単な事故しかなかったわけですけれども、岩手や宮城では死傷者もでるという大惨事になりました。新幹線からみた風景は変わらないものでしたが、東京本社版の朝日にも載っていましたが、写真で杉の木の植林された所がどっと崩れているわけです。こういうところにも国の林業の政策のまずさが現れているのかなとも思っております。また今日は秋田の方で全国植樹祭というのがありまして、天皇、皇后両陛下ご臨席のもと来ておりますので、私のような者が同じ空気をすってはまずいと言うことで、こちらに急いで来たわけですけれども・・。そのことと最初に話された後期高齢者医療制度、これは75歳を70歳にするとか、医療制度をかえるとか、そういういじることじゃなくて、全廃する問題だと思っております。私は秋田で市議会議員をしていまして、共産党の方2名と私の3名が反対しているのですが、他の38名の議員は全員賛成です。今回はマスコミでもいろいろ取り上げていて、沖縄の件もありまして、風見鶏の議員が多いわけですが、社民党、民主党系の地方議員は、いままでは賛成に回っていたのですけど、今回は医療制度に関わることは反対するというような情報が入って来ています。最後になりますが、ここに4名の本多さんシンパが集まったのですけれど、つい先日第45回ギャラクシー賞の優秀賞を受賞されて、これはラジオの番組で受賞されてということで、現役で受賞されたことにおめでとうと申し上げたいと思います。どうもおめでとうございます。(本多さんに拍手) 

酒井
 国分寺から参りました酒井と申します。ここでどういうことが起こるのかわからないままに参加しています。動機は非常に不純でして、今日、ここに鶴見先生がいらっしゃるということで、一週間くらい前に先生にお手紙を差し上げていた件で、伺ったんです。私は、前から座ったいたんですが、鶴見が後から隣に座られたんで、その点誤解なさらないで下さい。ここでこうした形でみなさんがお話しされるのを、さっきから新鮮な気持ちで聞いています。私は年格好からわかると思いますが六〇年安保世代です。まさにその時の人間ですけど、私は大学になかなか入れなくて、丁度60年の時は、私の同級生が大学2年生くらいの時なんですね。その時にとっつかまっちゃって、そのまま前科を背負っているなんて者もいます。私もすんなり大学に入っていたら間違いなくやっていたんだろうと思います。丁度その時期には、六本木あたりに勤めていまして、大デモの横を、俺の方が本当の労働者だなんて思いながら、印刷所に行ったりなんていう記憶が鮮明に蘇ってまいりました。先ほどから伺っていて、私は憲法九条なんて、絶望的だなと思っていたんですが、そうでない方向に向かっているということを聞いて非常に心強い気がしました。ここにきてこういう話しが聞けると言うことは時代が、もう一度回っているんだなと思います。私が長くしゃべりますと恨まれますので、じゃあ鶴見さんお願いいたします。

鶴見
 年寄りの長話しを避けたいので、一枚のメモを作ってきました、こんな小さいものです。私は85歳で、本多さんの91歳に比べれば若いんですよね、だけど本多さん良く声が通りますね、驚いたな。85歳で、5歳の時に号外が投げ込まれたんですよ、家まで、それが写真入りでね、張作霖爆殺なんだ。つまり列車の通る中で麻雀で遊ばせておいて、それを爆破したんですね、驚いたことをやるなと思った。で、私の家は政治家の家だったんで、これは日本人がやったんだって言っているわけですよ。まだ5歳なんで小学校も行っていないんで、日本人て悪い奴なんだなと思ったね。それから1年くらい経って、小学校に入る訳なんだけれども、日本人て悪い奴なんだという考えはなかなかぬぐい去れないで、85歳の今日まで来ているんですよ。ところが、自分が日本人だということはわかった、私は生まれて時からあんたは悪いって、母親に殴られているわけですから、悪い面に悪い面が重なってしまって、今日まで、はっきりした自分の核心としてあるわけですね。で、始めはね、張作霖爆殺とか、満州事変とか、中日事変とか、小波小波でずっときているんですよ。そのうちに日米戦争って、どかんと来るんですね、大波が。で、それが終わったとき、終わった日は、8月15日ですけど、ほとんど反応ないんですよ、能面のようになっていた。それは豊多摩刑務所でさえだって、そうだったそうです。ただ徳田球一だけはものすごく元気だったっていいますね。で、あのアメリカの記者が来るんだけれどもどうしたらいいと思う、と相談をうけたのがあの「若者よ、体を鍛えておけ・・」(「若者」)を作ったぬやまひろし、ぬやまひろしはね、体の力が抜けていて何にも考える力がないんだって、徳田さんのいいようにとそのとき言ったんだって。今、十数年たって、ようやく考える力がついてきて、あのとき言うべき事はね、日本人がここに入ってきて救いに来るまでここで待っている、何も決断しないで。これが正しい答えだったと、ぬやまひろしは言うんだ。それは羽仁五郎が言ったこととほとんど同じなんだ。羽仁五郎は、私と対談したときに獄中にいる自分を何故君は救いに来なかったか言うんだ、困ったね。そこから始めるんだ、私はそのときはそんな元気がなかったんだ。それが非常に多くの日本人にあったことなんですね。1945年でしょ、それが15年経って1960年に爆発したんですよ。それは日本全国に100万を超えるデモが起こって、大変なことだったんですね。とにかく家に帰ってテレビをつけるとこりゃ大変だって、もう一遍出て行って国会周辺に行く、その中の一人にそこの本多さんがいたわけで、銀行の課長なんですから、組合に入れてくれないんで、自分一人で出て行って、入るところがないんで、声なき声に入ってきた、そういう人なんですよ。それからほとんど50年経って、そういうわけなんですよ。女子学生が殺された、これもビックリした。女子学生が殺されたなんて、大変なニュースなんですね。いや驚いた。で、私はあの樺さんのお母さんと近いんですよ。お母さんは私と同じ小学校を出て、10年程上なんですが、彼女は、出て行く美智子さんに警官を憎んではいけない、といったんだそうですよ、それだけがメッセージ。で、美智子さんは私たちがやらなくてはいけないんですよと出て行って殺されたっていうんですよ。私の気持ちは樺美智子のお母さんの気持ちに近いんですけどね。とにかく大変な衝撃でした。で、自然成立のとき、その国会の脇にいたんですが、時間が0時をさしたときに、そのとき、そこにいる人たちはじいっとしていましたね。それは驚くべき事です。で、隣にいたのは私の細君なんですが、力を感じたって言うんですよ、自制力のある、なんにもこの「わーっ」というような声も上がらなかった、で、その直感は正しかったんですね。それからどんどんどんどん数は減っていくんですが、声なき声は新年宴会に、最後に集まった人は7人だったんですよ。トミさんは8人だと言い張るんですけど、トミさんてそういう細かいところにこだわるんで、7人か8人かわかりませんよ。とにかくそこまで人数が下がった時に、高畠通敏と言う人が私のところに電話をかけてきて、アメリカという超大国がベトナムという小国を爆撃する、どう考えても変じゃないか、その一点に対して、絞って、抗議する運動に作っていこうと私を呼び出したんですよ、私は一つだけ考えをだしたんです。新しい人を代表にしよう、その時思いついたのは、若い人でベストセラーを書いていて、60年に指導者としていなかったたのは小田実なんです。私は付き合いはなかったんだけれども、住まいを突き止めて電話したんです。こういう運動をしたいのだけれども代表になってくれるかと、頼んだんです。あまり付き合いのない人間から電話一本ですよ。やるっていうんですよ。二〜三日したら東京に出てくるっていうから、新橋駅の横にフルーツパーラーがあるからそこで会おうと、高畠と私と小田と、そのとき彼は新幹線のなかでビラの案を考えてきたんです。それが八百屋さんも花屋さんも・・というビラですね。全く新しいスタイルですね。でそれが始まったら、これがね、毎日とはいわず、毎週、どんどんどんどんのびていくんですよ。あっという間に全国で100万を超えたんです、大変なことですね。で、8年間続いたんです、それで終わったんですが、終わったきっかけはベトナム人民がアメリカに勝ったからですよ。こんなことになるとは思わなかったですね。ベトナム人民がアメリカ合衆国に勝った、それで8年間の運動は終わったんです。大変なことが起こったんですよ、それで終わったんです。そこに事務局長だった吉川さんがいますが、吉川さんはまだ生きています。小田は亡くなったんですが・・。ホントに不思議な感じがしますね。小田が死ぬときに、鶴見さんより先に死ぬとは思っていなかったって、申し訳ない。この声なき声の会というのはべ平連を作る母体になったんです。東大脇のYMCAで作ったんです。で、作ったら、べ平連の後ろにくっついて、声なき声もずっと解散しないで続いたんです。べ平連解散の後も、ずっと今日までやっているんですね。こういうやり方って日本の運動史の中ではめずらしいんではないでしょうか。大変めずらしいと思います。で、これは、この会は1960年から続いているんです。ですから48年、ほとんど半世紀です。だいたい運動というのは、人間の個性を無くすもんなんです。一人一人の生き方っていうかライフスタイルをつぶすもんなんです。それは、日露戦争に勝ったときもみんなそうだったし、最初の東大新人会、これもそういうもんだった。だいたい声明がね「今や世界の体勢は・・」、東大法学部に17歳で入ってもう意気軒昂として次の総理大臣は自分たちだと思っているんですかね。その感じというのは連邦無比ですよ。世界にはないですよ、こんなもの。東大法学部に入った時の天下をとった感じって言うのは・・。吉川さんそれ知っているんですが、法学部じゃなくて文学部にいたから、それで中退したから、天下とる側に行かなかったんでしょうね。でも「今や世界の体勢は・・」といってみんなの個性を打ち砕くってのはどうでしょうか。私は、大体、そういうのは眉唾もんですね、私は東大行っていません。もっとも追及されるとまずいですけど、世界の大学の番付で一番の大学を出ています、それはハーバードですけど。でも、この運動は続いたんですよ48年、「今や世界の体勢は・・」なんてことは誰もいっていません。このリーダーだったトミさんはこんなこと言わないんです。トミさんの山場とういのは、色々な人によって違う思いますが、佐藤訪米の時に、もののべながおきっていう「ちょうちんデモの会」のリーダーがいて「佐藤が死ぬか、自分が死ぬか」って演説をうったんですよ、かーっとなるんですね。で、声なき声の会の人は大体は、もののべながおきについて行っちゃったんです。トミさんは一人でとことこ家に帰ったんですよ。それで、家で飯を食ったんだ。私は、これ偉大だと思います。トミさんの仕草というか表現はそこにある。そんな(ついていくような)ことはしない。大体7時半くらいになると用意して家に帰っちゃうんですよ。そのことを死ぬまで実行した人ですね。そのことの偉大さと言うことがあると思うんですね。もののべながおきについて行っちゃうんだからある程度なんですけど、トミさんの偉大さは受け継がれている思うんです。それはね、この48年の中で、さっき話しをした羽生康二、日本の詩の歴史を書いたんだけどとってもいいものだ、さらに羽生康二の奥さんで羽生牧子という人がいるんですが、この人がずっと詩を出しているんですが、近頃出した詩、私はこれ、とっても感心したんですよ。「一緒に暮らしている人」って、これは羽生康二のことでしょ、こんな詩集出すってすごいなと思って、これ読んでいてやっぱりすごい詩集なんですよ。まあ私は詩を読むのはそんなに上手くないんですが、中野重治の細君は女優なんです、中野重治の細君がいうのにはね、自分が読むと、女優の声ですから、どうしてもそれを書いた人、旦那ですけど、その朗読に劣るって言うんですよ。女優が読む詩は、書いた人が読むより劣る、私は書いた人でもないし、女優でもない、でも読みたい衝動に駆られるんですよね。「パンとチーズと葡萄酒と 私のそばにいるその人と出かける街、帰ろうとする電車の中、買ってきたものの話し、時の中に写っている私たち、パンとチーズと葡萄酒、その人はそう言ったのです、そうです、私は疲れて気がつかなかったのですが、私たちは手の中になんと素敵な買い物をしていたのでしょう、明日の確かさへの手がかりを膝において、広すぎる都市の中で、私は行き先を電車にまかせてしまいました」。私はこれすごい詩だと思うんです。大変な詩を声なき声の波の中で書いている人がいる、この人はライフスタイルを声なき声の運動48年によって崩されてはいない、私はその事が偉大なことだと思うんですよ。100万のデモこれはあった、だがそれが自分のライフスタイルを殺されないっていうことになった、重大なことじゃないんでしょうか。私はこの事を、声なき声の48年の大事な達成と考えたいんです。我々は、48年でこういうことを達成した、そのことをを確認したいと思います。

吉川
 吉川勇一です。声なき声の会には時々、断続して来なかったときもあるんですが、約40年くらい六・一五には参加してきましたかね。で、いま鶴見さんが仰ったようにべ平連は、声なき声の会が作ったわけで、しかもべ平連が非常に大きくなっていった間も、声なき声の会は解散せずにずっと続けている、べ平連以後も続けている。みなさんのお話を聞いていて、一つ最初あんまり考えてなくて、言っておこうかなと思ったことがありまして、それはべ平連とその運動の中で声なき声の会とが、かなり激しく対立したことが一回あるんです、激突と言ってもいいような。1969年大阪城公園で開かれた「反戦のための万国博」、「反博(ハンパク)」といった集会なんですが、そこには小林トミさんも高畠通敏さんも見えていて、鶴見さんはべ平連でもあり声なき声の会ありということで見えていて、その中で色んな事があるんですけれども、全共闘もたくさん来ていて、全共闘のべ平連吊し上げなんて言うのもありますけれども、それとかなりこんがらがって、声なき声の会もその「反博(ハンパク)」の主催者である、主として大阪のべ平連なんですけど、それと東京のべ平連から行った小田さんやら私などを相手にして、そういう言葉で言っていいかどうか分からないのですが、非難、糾弾を開始しまして、私と小田さんはもっぱら弁明に必死みたいなところがあって、その後、あの安保拒否百人委員会が出した「遠い日の記憶としてではなく」という題でしたかね、かなり厚いパンフレットがありますが、その中で、高畠さんを含めて、そのメンバーがその時の事を回想しながらべ平連批判を展開しています。で、そういうのが公開されているんですけれども、そのことに対するきちっと総括というか、それはされていないと思います。あれは何だったんだと、いったい、それはどこかでやってみたいと思います。鶴見さんの話しを伺いながら思いました。(会場から「是非お願いします」の声) 最初は、考えていなかったんもんでね。
 最初お話ししようと思ったのは、本多さんのお話しにあった九条世界会議に、えらくたくさんの人が集まった、1960年を思い出して同じ人たちだったと。そして高揚された気分になされたのでしょうが、似たようなことを私は、この10年くらい意見広告を新聞に出す運動を続けているんですが、ここ7年は全国紙に憲法改変反対の意見広告を出し続けてきて、今年は読売新聞と西日本新聞と東京新聞に全面広告を出しました。で、予想を上回って1万人以上の人たちから1300万円以上のお金が集まって、3つもの新聞に意見広告が出せたんですけれど、面白かったのは読売新聞の広告部がその意見広告が出た後、自分の努力でですね、読者からのアンケートをやったんですね。つまりその広告の効果を点検したんです、後から。で、その結果が詳しいレポートで私の所に来たんですけども、それによると、先ほど読売の世論調査で九条をかえるなという意見が過半数を占めたという、これは新聞自体がやった世論調査、今年の3月でしたけれども。5月3日以降にやった調査では、その意見広告に対する注目度、読者の何%が注目したか、それから好感度、それをいいと思ったか、いやな感じだと思ったか等々のいろんな項目が出ているんですけれども、全部50%以上、というか60何%〜70何%の数字が、好感をもった、あるいは注目した、よかったなどという反応なんですね。これ驚きました、この読売の読者の反応って。で、いったい読売の経営者はなんと見るんだろうかと、自分の新聞の所に出した、意見広告がですね、自分の読者にそう迎えられているということに、というふうに考えてやっぱり空気の流れは変わっているなあという気がします。先ほど、それは九条の会のせいではないかというお話があったんですが、私は九条の会、鶴見さんが呼びかけて小田さんが亡くなられたのはショックですが、私は九条の会を批判するつもりはありませんが、必ずしもそれだけだとは思いません。というのは九条の会には、ちょっと不満というか、意見がありまして。九条の会が講演会を開きますと、たくさん集まります、地方の集会ですと何千という、第二会場、第三会場とかをつくってもあふれるほど人が集まるんですが、もともと反改憲派なんですね、集まってくる人は。そしてこんなに仲間がいたのかよかったねと、それで解散していく、で元気がでたと。ですが、それが日本国民の中の改憲派と反改憲派の比率を変えることにどれだけ役に立ったんだろうかと。やっぱりそこに集まってきた人が、改憲派の中に打って出て、その人々と議論をして、そこをどれだけ変えるのかということなしに、たくさん集まってよかったね、九条の会は7000も出来たと言うことですが、それは共産党が必死になってつくっているせいだと基本的には思います。全部がそうではないですけどね。実に千差万別です、九条の会は。だけどそれだけだとは思いません。やはり教育基本法の改悪から安倍政権にいたる人々の危機感というのが、それを強めたんではないかなというのが私の考えです。で、少し空気は変わってきているかなと思います。ただその際ですね。皆さん方の中には、朝日の読者が多くて、毎日というのは少ないんじゃないかなと思うんですが、あの、最近司法の動きに私は危機感をもっています。下級審では名古屋の違憲判決のように、非常にいい判決が出ているんですけれども、最高裁ですね、つい先日、砂川のビラまき、自衛隊官舎へのビラまき裁判が、却下されて有罪になって、今度はあのバウネットの、NHKの問題ですね、あれがまた却下になり、こと政治と軍事と安保に関する限り、最高裁は断固として拒否している、というふうに思います。で、先ほど新聞のことを言いましたが、赤旗の記事を見て私は驚いたんですが、あの伊達判決、砂川裁判をやってですね、であれは安保条約が憲法違反だという判決を出して、大変なショックを与えたんですが、あの伊達判決がでた直後に、アメリカ大使が田中最高裁判所長官に緊急の会談を申し入れて、そこで二審を飛び越えて最高裁に上告させろと、あの一審の伊達判決を、という要請をやって、最高裁はそれに応えて、二審を飛び越えて最高裁がそれを取り上げて却下した、という事実を赤旗が報じたんです。私は、こんなことがあったんだ、やっぱりと。で、翌日の朝日が後追いをするんだろうと思っていたんですが、朝日のどこを見ても何にも触れていないんです。で、毎日新聞がちょっと出しました。続いて東京新聞がほんのちょっと出しました、それでお終いです。だから大部分の人は知らないんじゃないか、そんな大事なことを。つまりアメリカはあの伊達判決を絶対に放っておけなかったんでしょうね、何としてでも一刻も早くあれを無くさなければならなかった。だから、こと日本の政治に関わることと、軍事に関わることに関しては司法の最高の所にいる最高裁は決して変わっていない。むしろそこだけは緩めないぞと、そして市民的権利をどんどん奪っていく方向に進んでいくんじゃないか。そこだけは私、危機感を持っています。空気は変わってきているとは思う、でもそれは民衆の方の話しで、まだそれは最高裁には及んでないなと思って、そういうことを報告したかったのです。
あと一点だけ、コマーシャルですが、この3月に出した私の「民衆を信ぜず、民衆を信じる」という本を持ってきています。あのタイトルは、昨年ここで話したことの中身をタイトルにしたんですが、中に、小林トミさん、短い文章ですが、偲ぶ文も出ています。本日は特別割引なんで、お求め頂ければ有り難いと思います。
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2009年01月17日

2008年の「6.15集会」

2008年の6.15集会の一部を掲載します。作業は細田さんが行ってくれました。発言された方は、誤りがあれば、訂正箇所をお送りください。

2008.6.15集会

柳下
 どうもお待たせいたしました。時間になりましたので始めたいと思います。
今日は心なし人数が多いような気がします。お配りした便りを見て頂くと分かるんですけど、去年は丁度参議院選の前でして、その結果を心配する声がいくつも出ていました。今年は、ここにも何人かいますが後期高齢者医療の問題など老人に関わる問題がいくつもあります。今年もここに集まって重いの丈を話して頂ければと思います。 それから、来年も同じ様な冊子が出来るかは、テープ起こしが大変なものでちょっとためらっています。ただ記録としては残して置きたいので音声としては残します。それからもう一つ、会場に関してですが、来年は抽選に当たれば使えるんですが、再来年は改修に入るんだそうで、これから探しますが、この会場は使うことができません。場所が変わることは間違いありません。それはご連絡します。
 それでは、私の隣にいる本多さんからお願いします。

本多
 まさか隣に司会者がいるとは知らずに座ってしまいました。まだ何にも用意をしておりませんですけど・・、皆様、ご苦労様でございます。いまここに居られない小林トミさんにかわってお礼を申し上げたいと思います。
 言いたいことは山ほどあるんですけども、これをしゃべっていると明日の朝までかかってしまうもので、今日は一つだけ、つい最近感じましたことを報告することにいたします。つい5月のことなんですけども、千葉も幕張メッセで九条世界会議というものがありまして、それにピースボートという団体が主になってやっているんですけども、私、ピースビートと縁があるもので、呼びかけ人を引き受けたものですから、とうとう和歌山から連休に出て参りました。その千葉の近くのホテルに泊まりまして朝、その会場に入ろうと出かけました。で、入ろうとして3人で会場の前に来ましたら、長蛇の列が延々と続いているんです。ああ、これはこの近くで物産陳列場があるから、何か掘り出し物でも探しに来た人なんだろうなどといいましたら、連れが「本多さん、みんな会場に入っていきます」というんで、見たら長蛇の列がみんな吸い込まれるように会議場に入っていくんであります。その状況を見たらなんというか感動したんであります。そんな感動といういのは久しぶりでありました。というますのもその長蛇の列が、あの60年安保の国会を取り巻いた列と同じに見えたんであります。見えた所じゃない、あの時と同じなんであります。あの60年安保の時も赤旗を立ててワッセワッセやりましたけれども、動員をかけられてからでも何でもない、みんな自分の子ども達が二十歳になって、軍服着せられてなんてなったら大変だという思いだった。その群衆と同じ群衆であったことに心が震えたのでありますが、日本も捨てたもんじゃないな、これで安心して、明日、目がつぶれるなあとそう思ったのであります。そのくらい感動的な光景でありました。それを報告申し上げて次ぎに回したいと思います。どうもありがとうございました。

浅輪
 埼玉県からきた浅輪と申します。6月15日の会が私にとっては、いくつかの事を確認する会になっています。その一つは、6月15日そのものを忘れないということですけれども、私がこういう会に出てくることで何かいいことをしていると思わないようにしようと言うことです。具体的には、1960年の6月15日に樺さんは亡くなられて、私は生き残って、そのことが私には負い目になっているわけです。そのような負い目は、他にもいくつかあるわけで、その一つは戦争中に日本の兵隊さんを万歳をして送り出した。そのことも今から思うと私にとっては負い目だなと思います。ですから、こういうことに感心を持ち続けることは、何か立派なことをしているのではなくて、私にずっと重荷として被さっている、そういうものを担い続けようと確認するそういう機会だ思って6月15日の会に参加しています。

岩垂
 岩垂と申します。最初に皆様に報告申し上げますが、この会が小林トミさんによって始められたことは、皆さんご存知のとおりです。数年前に亡くなられたんですが、ご一緒に住んでいたお姉さんがご健在です。小林やすさんといいます。今朝ほど電話を差し上げたら、「私も会に参加したいんだけども、右足がうまく動かないので、東京まで参加することはできません。みなさまによろしくお伝え下さい」と申しておりました。
 あと少しお話をしたいことがあります。一つは本多さんも仰られていた「九条世界会議」のことです。その会に私も出かけていったのですが、会場がすでにいっぱいで入れなくて三千人の群衆と野外で集会をひらいて帰ってきました。大変集まるだろうと思っていたのですが、予想以上の集まり具合で、驚きました。これは何か世の中の動きが変わってきたのかなと思いました。改憲派の読売新聞の調査によっても改憲反対派が、改憲派を上回ったとの調査が出ていましたですね。やはり「九条世界会議」に象徴されるような、九条を守れ、九条を生かそうという運動が、社会的にも分かるような成果を生み出したのではないかということを実感いたしました。 
 もう一つお話しておきたいのですが、この5月にある運動に関わりまして、こういうことがありました。みんさんも御存知かと思いますが、チェ・ゲバラという革命家がおりまして、そのゲバラが亡くなって今年で41年、生誕80年という節目の年にあたります。キューバ革命は来年1月1日で革命50年になるんですが、そういう節目をとらえて、チェ・ゲバラの娘さんでキューバでお医者さんをしている方を日本に呼んで講演会を企画し、有志で実行委員会をつくってお呼びしました。私は、最初はチェ・ゲバラといえば有名ですから、呼べば日本のマスメディアが殺到するだろう、そのときその扱いをどうすればいいかと思って苦労していなのですが、開けてみますと、日本のマスメディアはほとんど感心を示しませんでした。それはそれでいいんですが、全国各地でやった彼女の講演会はどこも予想を超える超満員の盛況でした。会場があふれて急遽第二会場をつくり、お叱りをうけるといった感じで、「九条世界会議」の二の舞のようになって主催者が謝罪をしたというような状況でした。会場に来た方はごく普通の方々で、何かを求めてきたんだなとつくづく感じました。日本は何が問題が多すぎて、何かしたいという期待感が講演会を満杯にしたんじゃないかと思っています。これも底辺の所で何か変わりつつある予兆ではないと思いました。 

清水
 東久留米市から来た清水と言います。この会にはもうずいぶん前から6月15日があいているかぎり、出席するようにしています。トミさんが亡くなったのは2003年の1月でしたから、もう5年も経ってしまったんですけれども、私の耳にはトミさんの声がありありと残っていって、いつも笑ってらしたり、笑顔がいつも頭に浮かんでくるんです。
私は以前、ずいぶん昔になりますが、思想の科学社で仕事しておりましたので、雑誌の催し物欄と言うところに、いつも四月末になると、六・一五のことを載せてねと毎回電話がかかってきて。もしもしって言っただけで、ああトミさんだって分かるんですよね。それで少し世間話しなんかして・・そういうトミさんの思い出があるから、トミさんの声が残っていて、ちかごろの老人いじめとか世界的にみてCO2の問題とか・・何かエコエコって、エコが錦の御旗みたいに言われている現状、トミさんがいたら何かおかしいんじゃないのって、絶対言うだろうなって、お元気だったら何と仰るだろうかなって、そういう声がいつも耳に響いてくる最近です。
 個人的なこと言うと3年前に母親が軽い脳梗塞になって、年老いた両親2人を田舎において置くわけにはいかないというので、私と姉で都内に部屋を借りで、両親を見るという生活が続いていまして、その間に父がなくなりましたので、仕事プラス母の
介護でいぱっいいっぱいの生活で、いろんな会合に参加できない状況です。声なき声の集会もずっと夜に行われていたので、仕事が終わってから駆けつけるといつも発言
が終わりの方だったり、間に合わなかったりということが多かったんですけど、今日はこんなに早く来てしまって、とまどっています。何を言おうかという心構えが出来ていなかったので・・。皆さん、後期高齢者の問題とか言うと思うので、一つだけ。
岩波のブックレットって安くてに入る冊子がありますが、テッサモーリ鈴木さんて言う、北朝鮮問題などでも刺激的な発言をしている方が、昨年だと思うんですが「愛国心を考える」という著作を出されて、「愛国心」といっても本来どういうものかを考え直すきっかけになるような提起をしている本なんですけど、その中にトミさんのことが書いてあるんです。非常に短いんですけど「行動で示される愛国心」という章の中で田中正造などどともにトミさんが5ページくらいに渡って挙げられていて、非常に・・、どなたかが資料を渡されたと思うんですけど、岩垂さんですかひょっとして・・、たぶんそうじゃないかと思ったんですけども、非常に的確にトミさんのことが紹介されていて、トミさんという人がどういう人でだったか、プラス、トミさんが提示した運動のあり方、取り組み方とかがコンパクトにまとめられています。480円+税で非常に安いので、みなさん是非買って欲しいし、買うのが・・というなら立ち読みでもして下さい。この中で私が非常にトミさんらしいなっていうのがあって、一行だけ読みます。「小林がくり返し強調した平和で独立した社会を作るという取り組みとは、自分自身の限界を知ることを意味した」。私、この一行がそうだなって思ったんですね。自分自身の限界を知りつつ、自分がどこまでできるか、自分が来る範囲、
自分がここまではできるから、ここまではやろうということを生涯を通して実践した方なんだなって改めて思ったんですね。ですから、この先トミさんの笑顔を忘れず、声を思い出しながら、社会に、いろんな怒りに対して、トミさんだったらどうだったかなと問い返しながら、自分自身の限界というものを見つめて、どうしたらいいのかを考えていきたいと思います。

山田
 どうも山田周司ともうします。私は、初めて参加したのですけども、今日来たのは、
一つはやはり、私、樺さんが殺されて時、私は大学の2年生でしたですね。うちの自治会の役員などやってまして、私は山陰の島根の大学にいましたので、当日は東京にはいなかったもので、あのニュースを聴いたときは非常にショックを受けたことを今でも覚えています。そういうことで、樺さんの献花に行かれると言うことで参加しましたということと、私は大学を卒業した後は、ずっと教員をしておりまして、日教組の一組合員として、ずっと過ごしてきたんですけれども、退職してからは千葉の九十九里の方に移り住みまして、見ず知らずの土地に暮らして、あらゆる組織からも切れまして自分が何をしていったらいいのかということを絶えず考えまして、学生時代からこの「声なき声の会」は知っていましたし、気になっていまして、こういうところに来れば、これかあら何か私の動くヒントになるんじゃないかなどと虫のいいことを考えて、今日はお邪魔させてもらいました。どうぞよろしくお願いします。

藤田
藤田と申します。私は70年安保の世代なんですね。同級生はみんな転向していきました、体勢に流されて。私は、べ平連のデモでもしっぽの方に着いていきました。でも、しっぽについていく人間が最後までしっかりやっていくんだなあと思っています。これからも吉川さんとか鶴見さんとか、旗振りされる方のしっぽの方で、粘り強く、着いていきたいなと思っています。よろしくお願いします。

村雲
 村雲と申します。今年で3年目、3回目の参加です。まだ3年です。今、小林トミさんの自分の限界を知るという話しがあったんですけれども、イラク開戦以来、何が僕に出来るんだろうと思って・・、新宿の西口の方でプラカードを持って黙って立っている人たちがいる。ああこれだったら俺にも出来るんじゃないかと思って、毎週一回ですけれども、立ってきました。昨日は、60年安保のときにデモが国会を取り囲んだ写真を持って立ちました。あれから48年経った。安保条約は48年間、何をもたらしたかを考えてみませんか、とだけ書いて持って立ったんです。そうしたら、いつもは割と素通りしていくんですが、今日ここに来ていらしているような方が、いらして写真を見ていました。あなたはその時どちらにいらしたのですかと聞いたら、写真を指さして、ここだよと人々のたくさんいる所を指してくれたんですね。ああそうですかって。声をかけないまでもご夫婦でじっと見つめている方とか、昨日は特別にそういう反応があって、いろいろ僕も考えたんですけれども、なんでこの方々はその後の70年とかイラク戦争とか続いてこなかったんだろうか。どうして断ち切れてしまったんだろうかと思ったんですね。で、そのときどうも結論を出すのが、市民運動では早すぎるんじゃないか。国会を通って決まってしまったらもう終わってしまったと思った人が多すぎたんじゃないか。僕は、その時考えたんですけれど、樺さんが亡くなったりしたけれども、牽制、野球でピッチャーが牽制してさすと次の選手はなかなか走れませんね。そういう牽制力として残ったんじゃないか。何もようわからん安倍君などが出てくる前までは、自民党内でも、安保や自衛隊や九条に、バランスをとって牽制する力にもなってきたんじゃないか。だから市民運動って言うのは、もう勝利か敗北じゃなくて、相手がやろうとしたことを85%にした、90%にした、ということをみんなで認め合えばもっと長続きするんじゃないかと、昨日、そんなことを思い、今日ここへきたら話さしてもらおうと思ってきました。よろしくお願いします。

鈴木
 鈴木と申します。今年で2回目で、去年は20秒ほどしゃべったと思いますが、今日はもう少ししゃべりたいと思います。一つはこの会の形式が車座になっているのですが、こういうスタイルで最初からやられていたのかどうか。後でご存知の方がいらっしゃったら教えて頂きたと思います。二番目にお話ししたいのは、民主主義という概念が素晴らしいもので、特に60年、70年を経て先進国になった、市民社会になった段階で、民主主義というものが実現されるものであるという幻想を抱いていたんだけれども、丸山真男さんの言われたようにどうも話しが少し違う。それは1972年に出された論文によりますと「歴史意識の古層」というのが日本人にあって、で、その層に入ると中国の文明にしろ、ヨーロッパの文明にしろ変形をされて、非常に古い古代日本の封建社会に、すなわち日本のスタイルに合わせた形、要するに歪曲して実現されるようになってしまう、というような「歴史意識の古層」あるいは「さみだれ」というような事を言われていますけれども、それからもう一つ感じました問題というのは、先ほども話しがありました、転向の問題なんですが、私、秋葉原の古本屋に行きまして「共同研究・転向」の全三巻の本を買おうと思いまして、行きましたところ三冊11万5千円という値段が付いていまして、これはちょっとかなわないなと思って、古本屋さんには申し訳ないんですが、立ち読みを1時間ほどさせてもらいました。その中で、特に注目したのは古在重由さんという人が「転向というのは権力によって強制された思想の変化であるというのじゃなくて、思想の2回目の変化である。2回目と考えないと、あまりにも簡単に転向しすぎる」というふうに仰っている。で、その後の古在さんの論文を探してみたけれども、それに類したことはお書きになっていない。君が代不起立の問題が東京を中心に起きていまして、集会によく行ったのですが、学校の仲間は仲間意識をもって参加しているんですけれども、そういうのがいくつもあるにも関わらず、お互いの連携がやや薄いんではないか。同じ問題で、同じ権力と闘っているのに、こちら側が仲間意識を中心にしていて、丸山さんが言う「普遍的な愛」という考えでなないように思えるということ。これが三つ目。それから、四つ目は東南アジアで軍事政権がいくつかありまして国民をいじめる、そうするとそれに反対して立ち上がるのが僧侶とか学生とかなんですね。そのときにアメリカのカトリックの信者が大使館におしかけて、同じ宗教者をいじめるなと訴えている。ところが日本の場合同じ仏教者なのに、そういう仏教者はいない。これは私考えましたのは「島国根性」というのはこういう所に現れるじゃないだろうか。「島国根性」というのは私が考えますに酋長がいて**がいる。で同じワンパターンの考え方で生きている。ですから外から異分子が入ってくる。あるいは内部でうまれる。そうするとあいつは、外人だという考え方で一様化を求めるという考え方が支配的になる。歴史をみてみると「西高東低」のような、つまり西ヨーロッパでは個人主義というものが発達しているんですが、中東からアジアに行き、中国に行き日本に来ると次第に低くなる。その低くなる原因を考えたんですけれども、さっきの丸山さんの書かれたものをヒントに考えたんですけれども「普遍性」というものは、人間が類人猿とかから進化したときに最初から持っていたものではなくて、戦争とかですね。非常に我々がいままで考えていた考えと違う考えを持たなければならないという思想と思想の比較をやることによって、そういう民族の経験を経ることによって、次第に「民主」だとか「基本的人権」だとかいう概念を身につけたんじゃなかろうか。で島国というのはさみだれがたまにくる程度のところは、それと正反対で昔からの迷信とかがそのまま生きているのが日本じゃないか。で、じゃどうしたらいいかということを考えたときに、むのたけじさんという方が、20年〜30年前くらい前から秋田で活躍されているんですけども、最近書かれたものの中にさっき言いましたけれども、教室にたって生徒に語るようなやり方でしゃべりたくない。それから先生という呼び方はして欲しくない。
それを認めてくれればどこへでも話しにいきましょう、と言われている。車座で話しますと一対一の対話がなりたつものですから、当然話す内容に責任を持つ必要がある。
考え方がお互いにぶつかるような場面が出てくる。そういう主体性を育てるために車座の会というのは効果があるんじゃないか。21世紀になって昔の紀元前のような戦争をすることによって「普遍性」を身につけるようなことはもう到底無理ですから、そのそうな手段は有効なのかも知れないと最近考えています。以上です。

柳下
 先ほどのご質問に、細田さん答えてくれますか。

細田
 私自身は1970年代の中頃からこの会に関わっているんですけど、こういう車座で無いときもあったと思いますが、ほとんどこの車座の形でした。今は、こういう形で一人ずつ話していますが、前は誰かにもう少し長めの話しをして頂いて、その後にこうして一人ずつ話していたかなと思います。ここ30年くらいはずっとこの車座の形で、6月15日の集会はもっています。

小牧
 はじめて参加しました、相模原からきた小牧みどりと言います。前から来たかったのですが、なかなか来られなくて、今日は日曜で、昼間なので来ることが出来ました。ご存知のように相模原には米軍の基地があります。キャンプ座間が陸軍の司令部があるので、「米軍再編」なんてことが言われなければ、私はただの主婦でぼやっとしていたのですが、生まれながらに基地がありましたから、当たり前の風景になっていましたので、日米安保とか、そういうことは全然知らなくていたのですが、米軍再編と言うことで強化されることがわかって、色々調べたら、日米安保がある限り基地があるわけですね。それがやっと分かったので、ここ二年くらいは相模原の市役所のバス停の前に立ちまして、毎週水曜日一時間なんですけど、相模原に基地はいらないと書いて立ったり、市民の意見30の「九条実現」という大きなポスターを持って立ってたりとか、そんなことをしています。それから、2年位前の6月にNHKの生番組で、日本のこれからという番組がありまして米軍再編ということで、相模原から二人という枠で自治会連合会の会長と私が出ました。沖縄から20人くらい参加していて、なんか番組の雰囲気が、沖縄の負担を軽減するために、米軍再編の負担を分担するというような、それは最初から仕組まれているような感じだったので、私はその番組をぶち壊そうと思って行きました。で、ぶち壊せたと思うんですが、その後がいろいろ大変でした。そんな感じでいろいろな活動をしています。
 先ほどの鈴木さんの話しにあった仲間意識ですが、相模原の中でもいろいろなグループがあるんですけれども、労働組合とか政党とか女性グループとかいろいろあるんですが、バラバラにあってなかなか一緒になれないというのがありますね。一人でやっていると色々なところからお呼びがかかります、そういうときに個でいたいというのがあって、そういうことを学ばせてもらったのがべ平連とか市民の意見30の会とか、鶴見さんの著作とか、鶴見さんのファンですので・・、そういうことで一人でできるかなと言う感じでやっています。

尾屋
 山梨県から来ました尾屋といいます。私も5月の九条世界会議に行ってきました。そこで、原発の廃棄物の処理とか自分の知らないことがたくさんあることを色々知って、60年安保も私にとっては教科書の中の話しということで、あまり現実味はないんですけど、私の学校では現代史をほとんど習わなかったので、自分の知らない日本をもっと知りたいなと思ってきました。

黄(ハンorファン?)
 ハンと言います。ハンヨンヒといいます。在日の2世です。私はミーハーで、昔から鶴見先生の本を読んでいて、ファンだったものですから、今日いらっしゃるということを聞いて来たんです。だからあまり話すことはないんですけれど、在日ということで、私は親戚もなく両親と兄弟という所で育ってきましたので、市民運動をするとか社会運動をするとかいうのがないんですね。むしろ禁じているというか・・。ただ、やっぱりどこかでいろいろなことが起ったときに、グループを作りますとか、仲間を作っていろいろいうとか、そういう発想には全然いかないんですね。どうしても個人でいたい。そういうのが鶴見さんに惹かれた所なのかななんて、つい最近、鶴見さんにお会いする機会があったので、なんで私は鶴見さんに惹かれたのかなと、もう一度問い直しているんですけれども、そういうようなレベルで参加させていただきました。

安田
 安田と申します。この声なき声に関しては、ものすごく古くから関係していたと思います。それから今、ハンさんがおっしゃったように小さな練馬読書会というのを、やまなみの会の仲間とやっているんですけれども、そこで鶴見さんの本をもう7〜8年読んでいるんでしょうか。もうひとつ、最近つくづく思うんですけれども、私は学童疎開の世代なんですね。小学校4年生が敗戦の年なので、敗戦になって親たちがみんな引き取ってくれない、捨てられたような状況があったわけです。それから最近になって後期高齢者問題で国が老人を捨てようとしていて、もう少ししたら私、二度目に捨てられるんじゃないかなとがっかりしている所です。

石山
 いま安田さんがお話しされた読書会に参加している石山といいます。国会の南通用門に献花に行きたいと思いまして、今日は伺いました。よろしくお願いします。

大木
 最初に、先ほど話された村雲さんのプラカードはとてもすばらしいプラカードでした。今日の私のホームページのトップに載っています。今日の12時か明日の朝まで掲載しています。もしアドレスが分からない方は、このポストカードを買うとアドレスが下に入っていますので、よろしくお願いします。
 私は、この6月15日を私の中でとても大切な日と決めています。1969年に新宿の西口、いま立っている西口で反戦フォークを歌っている頃からそう思っています。あのころ中川五郎さんの作った前進という樺美智子さんを追悼する歌があります。私は、それをあの広場で何度も歌いました。あの広場ではほとんどの曲がみんなで歌えたんですけれども、この前進という曲はソロの曲です。静かに歌う曲でした。300人くらいの小さな集会でしたけれども、西口で歌いました。この歌を歌うとみんな、静かに歌詞に目を落として心に刻みながら聞いて下さっていました。私は、広場で歌えなくなってから、毎年毎年、国会をぐるぐる一人でまわりながら歌ったこともあるし、この集会に来て献花に行ったりしてきて・・、大切な日って言うようになったのは夕べからです。ブログに書きました。それはどうしてかというと、このところ開城高校の高校生が私に話しを聞かせて下さいって、昨日で4人目です。「総合社会」という授業の先生が20項目くらいプリントして、それをテキストに生徒に渡したそうです。1月25日の朝日新聞の私のスタンディングの記事がその中のトップで飾ってありました。それを読んだ生徒が、新聞の記事の内容をまとめるので、次々にメールが来るんですね。最初の男の子、ブログにずーっと書いてあるんで、もし読めたら読んで下さい、もうみんな本当に真剣に質問を考えてきて、背中に汗が流れるほど緊張している時間なんですけど、昨日も1時間話しを聞きに来ました。その中で、最後に「大木さん、今、若者に一番望むものは、なんですか。今、僕たちは何をしたらいいですか」という質問をされたんですね。それでわたしは、偉そうなことは言わないけれど、活字に慣れて欲しい、本をいっぱい読んで欲しい、そして、できれば携帯とか機械からちょっと目をはずして、生身の人間を観察して欲しいって話したんです。その中で明日は、私はこの6・15集会に来て、もしかしたら京都から鶴見俊輔さんがいらっしゃるかもしれない、鶴見さんの本てとっても素敵なのよって話しをしました。そういうことで、今日は元気にきました。よろしくお願いします。 
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2008年12月13日

PKOが国会を通った日

img002.jpg

この写真は小林トミさんが保管していた写真に一枚です。裏には
「92年 6.15」
[PKOが国会を通った日」
と鉛筆で書かれています。
この日について、「たより84号」にトミさんと羽生さんの文章が
掲載されています。次のPDFをご覧ください。
tayori-84.pdf

posted by luge at 17:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする